普通とか、普遍性とかいうものに対して、
絶望的な距離を感じている今日この頃。
真っ直ぐだったり、曲がっていたり、
そういうのが性質だとか個性だとかいわれるのは、
それが”適度”に真っ直ぐだったり、曲がっていたりするからで、
度を越して真っ直ぐすぎたり、曲がりすぎていると、
もはや個性とは認められないばかりか、
はっきりと異常者扱いです。
いや、まあ僕のことじゃないですよ?たぶん、はは・・・。あーあ・・・。
今日は常識について、
特に普通と異常の境界について、僕なりの見解を述べたいと思います。
常識というのは要するに思想のひとつですね。
社会を機能させるためのシステムとしての思想、というところでしょうか。
大昔から受け継がれている規範であり、
内容は時代によってマイナーチェンジしますが、
常識という概念が依存しているのは”人”ではなく、”社会”なので、
集団を統制するための制約、という根幹部分は変わりませんね。
こういうことをいうと少しアレかもしれませんが、
常識っつーのは、ぶっちゃけ幻想ですからね。
すべてを統制する世界機構(仮)みたいなのがあれば、
そして世界機構(仮)の内部構成ーーー組織の有力者たちが一枚岩であれば、
常識だとか規範だとかは成立しますが、まあ到底現実的ではありませんし。
もしも世界がひとつの国だったとしても、国を治める人間はひとりではありませんから。
前提の法があったとしても、受け取り方は各人で異なり、
個人の意思が反映された法が、つまり常識になる、という構造です。
個人の思想、というフィルタを通すことで、どうしてもスポイル(解釈)されてしまい、
本来の在り方と乖離してしまうというーーー、まあ、これは法に限りませんけれど。
さらに、その常識ーーースポイルされた法ーーーは、またスポイルされて、
別の人間へと伝わり、またスポイルされて、という繰り返しで内容は歪さを加速させます。
伝言ゲームの要領ですね。誰もが勤勉とは限りませんから。
また、誰もが実直とも限らないので、地域ーーー現在なら市や県ーーーによって、
常識が異なることもよくあります。
この場合、その地域の人間は、大元の法と、常識というふたつの規範を守らなくてはならないわけですが、より大きな影響力を持つのは後者だったりします。
ん?あれ、僕はいったい何の話をしているのだ・・・?
脱線しているような気が。
ええと、まあ、まとめると、
要するに、ひとつの国とか、文化体系で確立している常識というのは、
あくまでも”そこ”限定であって絶対ではない、ということです。
ということは、”そこ”以外の常識も絶対ではない、ということになり、
結局、常識なんてものは幻想に過ぎない、というわけです。
だいたい、常識なんて言葉は、口論になったときにボキャブラリーの少ない奴が、
「それは常識的に言って間違っている」
とか、根拠も具体性もなく、とりあえず反論し(た気になっ)て、
どうにか面子を保って自己の優位性を保とうとすることで、
逆に、自らの愚かさを露呈する、という使い古されたギャグを行うための小道具に過ぎないのですけど。
まあ、何故こんな話をしているのかというと、
Google chromeに触発されたからです。
chromeーーークロームというのは主にメッキ加工に使用される金属です。
で、普通とか、常識とか、下手をすると、愛とか平和なんていうのも、
まあ、所詮は薄っぺらいメッキでしかねーんだろうな・・・、みたいな。
社会というのは”常識”というメッキを量産するための機械で、
人間は決められたことに従う機械で、
結局、本質はぜんぜん別のところにあってーーー
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