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いや、説明とか苦手です
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 不図思ったのですが、
 最近のフィクションには、両親の描写があまりないような気がします。
 それが意図的な演出によるものなのか、集団的自意識なのかはわかりませんが、
 それが現代の”家庭”のリアルなのかもしれないなあ、とか。
 親と子は不干渉。
 自然な流れでしょうか。
 
 少し前まではテレビ画面の中で、
 ”親ってうぜーなー、でも、まあ、ありがたいんだけどさ”、
 みたいなやり取りがあったものですが、
 最近は、それすら滅多に見掛けません。

 核家族化とか、少子化とか色々と関係しているのでしょうけど、
 テレビは、せめて古き良き家庭を流せよ。と。
 テレビは面白くないので滅多に観ませんが、
 ”面白くないから観ない”という僕を除き、世間では生活必需品だと聞きます。
 暇だから観る、とか。なんとなく観る、とか。
 日常生活に食い込んだメディアなわけでしょう。
 相当の影響力があるはずです。
 
 そんな影響力のあるメディアで”子と親の乖離”を放送し続けたりしたら、
 緩慢にですけど、本当に”子と親の乖離”が加速してしまうのではないのかなあ、という危惧。
 
 人間は視覚に頼りすぎているので、”眼で見たもの”は、
 無意識に認識してしまうので、知らないうちに意識に刷り込まれてしまったりします。
 サブリミナル効果というのですが、まあ、長くなるので説明はしませんが。
 
 時代がそうさせているのかもしれませんが、
 色んなことが解りやすくなっていっています。
 みんな焦っていて、だから簡単なものに需要が集中する、というのは解ります。
 どちらかというと、僕も楽になりたいですし。
 でも、残念ながら、僕は男で、しかも文系です。
 戦う文系というわけですよ。
 あんまり合理的なのは、うんざりします。
 ”いま”は良いかもしれないけれど、未来は苦悩に満ちているわけで。
 どんどん過去のツケが累積しているなあ、と。  
 
 割り切れるか、割り切れないか、ではなく、”割り切らない”を選びました。
 ずっと前に。
 
 間違えるのがいやなんです。怖いんです。だから、ずっと同じことを考え続けています。
 ていうか、ぶっちゃけ、いつまでも昔のことをひきずって、くよくよしています。
 そういうのは、社会的規範に照らし合わせれば、矛盾しているのは自覚しています。
 いわゆる”大人になりきれない子供”というわけです。
 最低です。客観的には。しかし、最高です。主観的には。
 
 たぶん、”答え”はとっくに通り過ぎているのだと思います。 
 僕が必要以上に怯えているだけで、
 世界も、世のなかも、小さくて、ぜんぜん大したことなくて、
 その影の大きさと本質を混同しているのだと思います。
 開き直って、自由を謳歌しますが、不安は消えず、途方に暮れています。
 
 錯覚にリアリティがありすぎるんですよ。
 見えないものが多すぎて不明。
  
 
 

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 前にも書いたことがありますが、
 人間のどこに心があるのか、というのは、
 ぶっちゃけ、よくわかっていません。
 心とか、感情とか、俗にクオリアというものは、
 どうやら脳で認識しているみたいですが、
 突き詰めれば、脳だって細胞から出来ているわけで、
 細胞だって、元素から出来ています。
 元素から人間になるまでの過程の、どこで”心”が成立したのか?
 逆に言えば、既に元素の段階で”心”は成立しているのか?
 そこら辺が、なんか空白っつーか、だからなに?みたいなことになっています。
 
 なので、仮説を立ててみました。
 
 元素とかは、どうでも良いです。無視。つーん。
 細胞に、”心”があるとします。
 細胞のひとつひとつに心があるとすれば、
 ときに矛盾した思いを抱くのも、自分で自分がよくわからないのも当然ですね。
 人間の細胞の数は60兆個と言われていますから、
 60兆個の自我が常にせめぎあっていると思えば、
 むしろ、矛盾しないはずがないようにすら思えます。
 
 だから、矛盾はします。
 心が、ひとつじゃないから。
 心が、ひとつじゃないなら。
 きっと、矛盾をします。

 うれしくても、どこか悲しくて。
 寂しくても、どこか楽しい。

 そう考えると、人間ってフランス映画みたいですね。
 フランス映画は嫌いですけれど。

 要するに、どんなに辛くても、どんなに苦しくても、
 どんなに、どんなに悲しくても、どんなに、どんなに、
 どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、
 どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、
 どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、
 どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、
 どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、やってらんねえ!もう死にてえ!と思っても!
 それを矛盾させて、歪ませれば、ぜんぜん大したことありません。
 すべてに向き合えば、あっという間に殺される。
 60兆個の細胞じゃ、足りない。生きていけない。やがて確実に死ななければならない僕。
 現実はでかすぎて、死は近すぎて、何もかも諦めて投げ出したくなる。
 自我が切なすぎる。目の前で起こることの説得力に抗えない。翻弄される。
 夢も見れない。何もない。眼を逸らした先に口を開いて僕を待つ暗闇。自分以外。
 理解できない。理解してもらえない。孤独。時間。主観。耐えられない脆さ。
 あらゆる要素が奇跡的に絡み合って、うぜえ。気が狂いそうだ。破壊衝動。ぶっ壊したい。ぶっ壊されたい。
 でも、矛盾させれば、それは別の概念に取って代わり、早変わり。つまり逃避です。エスケープフロムバッドミー!
 逃避は生きるために必要な技術ですから、自然ですね。間違ってなければ正解なのかと言われれば、正解は間違ってないのかと訊き返します。ファック偽善者(自分を含む)。自己満足に付き合わされるのは、もうたくさんだぜ!本当のこと以外は聞きたくねえ!知りたくねえ!したくねえ!考えたくねえ!ちょっと傲慢に生きるという決意。宣誓。になっちゃった。結果的に。そんなつもりじゃなかったけど。まあ良いけど。
 
 たとえば、誰かが流した涙があるとしますよね。
 たった一滴でも、1リットルでも良いですけれど、
 その涙に別の液体を足せば、それはもう涙じゃありませんよね。
 それは”元涙”ですけれど、いまは”名もなき水溶液”です。
 あとは名前を付けりゃ良い。
 ”優しさ”でも、”幸せ”でも、それが誤魔化しに過ぎなくとも、
 とっくに破綻して、取り返しが付かないことになっていても、
 なんつーか、関係ない。自由。しんどいけども。しんどさと引き換えの、権利。
 第一、人間には三次元しか知覚できないのですから、
 その程度の主観では、自分が正しいのか、自分以外が正しいのかなんて、
 正確に認識できるはずもありません。
 誰かにとっての現実が、誰にとっても現実であるは限りません。
 距離があれば伝わらないし、伝わっても、情報には齟齬が生じます。
 だとすれば、何もかもが矛盾していてもおかしくありませんね。
 正しさを立証できない世界では、涙は意味を持たず、ただ零れるだけ。
 誰もが矛盾し、やりきれなさを抱えながら逃避して誤魔化し、
 目の前にあるものを受け入れるしかなくてーーー、ひたすら自分に言い訳をしている。
 人類皆兄弟って、兄弟で戦争なんかしないし、愛し合ったりもしねえっつーの。とか。

 なんか、まとめる気ゼロで適当に書いたら、やたらと弱音が目に付きますね。
 追い詰められてるって感じ。
 そういえば、窮鼠猫を噛むという古事がありますが、あれはどうかと思います。
 猫を噛むなよ、と。可愛いじゃん、と。
 でも、もともと猫が鼠を喰おうとしているわけですけれど、それに対しても、
 喰うなよ、と。グロいじゃん、と。
 とはいえ、僕も牛とか豚とか鶏とか喰べているわけですが、たまに思います。
 これって死体じゃん、と。キモいじゃん、と。でも旨いじゃん、と。
 本能がなければ、とっくに死んでいたかもしれません。いや、どうだろう。
 観測していないから、なんとも言えませんけども。

 精神分裂と細胞分裂って、なんとなく似ているし。
 悲しくても、それを矛盾させれば、それは”悲しみ”とは別の概念ですから、
 自分を慰めるには、まあまあ良いと思います。
 もっとも、その思考自体が悲しいことを除けば、ですけれど。 

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 「憂鬱を溶かそう」
 いきなりMが言った。
 Mの隣には無駄に高級そうな革ジャンが全然似合っていないモーと、
 そして、僕のとなりには何故かoが陣取っていた。
 まるで、決して逃がさないとでも言うかのように、がっちりと僕の右腕をロックしている。
 「放して」
 「放しません」
 「話せばわかる」
 「話しません」
 没交渉状態。
 もがくように身体を揺すると、oの胸が僅かに僕の腕に触れた。おおう。やってる場合か。
 
 午前10時を少し回った頃。
 まだ6月だというのに宮崎の蒸し暑さは真夏のようだった。しかも多湿。
 身にまとう空気ですら、じっとりと湿っているような錯覚に襲われる。いや、錯覚じゃないのか。
 実際に湿度は高い。部屋の窓を開けても、申し訳程度に生温い風が入ってくるだけで、
 まったくもって糞っ垂れな具合である。fu☆k!
 さながら老婆の尿をたっぷりと染み込ませたオムツが辺り一面にばら撒かれたような状態だった。
 そんな状態を打破すべく、僕は下半身はジーパン、上半身は裸というスタイルで、
 耳にヘッドホンを装着し、エミネムを聴きながら、だいぶ昔に諦めて、それ以降、すっかり埃を被ったアコースティックギターで素振りをしていた。
 「おらっ」
 ぶおん。
 なんだか破壊的なパンクロッカーになったような気分だった。悪くないね。
 いや、実際は無職の文系なのだけど。
 くそっ、不景気のせいだ!
 「さんじゅういーち!」
 ぶおん。
 いや、まあ、本当はわかっている。自分のせいだ。
 すべての責任は自分自身に収束する。
 でも、なんかさあ!
 なんか、うまく言えないけど、しんどいんだよ!
 まるで、病み上がりみたいに!
 「さんじゅーにーぃ!」
 ぶおん。
 学生でも、社会人でもない、いまの不安定な状態はさあ!
 ふわふわしてて頼りない感じはさあ!覚束ねえ感じはさあ!
 冬目景の”イエスタデイをうたって”をリアルに再現するのはさあ!
 「さんじゅーさあん!」
 ぶおん。
 あー、なんかテンション上がってきた。ちょっと楽しくなってきた。
 でも、掌に弦が擦れて痛い。でも、僕の心のほうがもっと痛い!なんつって!
 なんつって、だってさ!弾みとはいえ、キモいっつーの!つーか、やけくそだっ!
 「さんじゅーよんっ!」
 ぶおん。
 うおお、なんか・・・、なんか見えそうだ!わかりそうだ!掴めそうだ!
 「さんじゅーごっ!」
 ぶおん。
 
 そのとき。
 
 がちゃり、と。ノブが回って。
 前触れもなく、いきなり玄関のドアが開いた。
 ちなみに、僕が居たのは一階のリビングなので、途中に短い廊下を中継するが、
 玄関からは、ほぼ丸見えである。ワンルームのアパートを想像してもらえばわかりやすいと思う。
 ギターを振り抜いたままの状態で硬直する僕。
 「え?」
      

 なんで、いきなりドアが開くの。鍵は昨日の夜きっちりと閉めたはずだけれど。
 いや、待てよ。朝、新聞を取りに行ったときに開けたかも?開けたかな?
 いやいや、そんなことはどうでも良い。誰だ?いったい誰が来たんだ?
 宅配便か?そんなの注文していない。
 郵便家?ダイレクトメールとか?いや、それなら直接ポストに投函するはずだ。
 じゃあ、誰だ?いったい誰なんだ・・・?

 まず、最初に姿を現したのはMだった。
 Mは大学の同期生で、いまは派遣会社に登録してイベントの設営スタッフなどをしているらしい。
 Mは、ぱくぱくと口を動かして、何か言っているみたいだが全く聴こえない。
 
 次に姿を現したのはモーだった。
 モーは大学の後輩で、一年年下の男子。
 中肉中背で、いかにも凡庸オーラを発しているのだが、やたらと眼だけはきらきらと輝いている。
 あだ名の由来は不明で、いつの間にかモーと呼ばれていた。
 確か、サークルの新歓コンパのときに何かあったような気がするのだが、なぜか全く記憶に残っていない。
 
 最後に姿を見せたのはoだった。
 oは、やたらと慇懃無礼というか、敬語で毒舌を吐く女子で、正直、傷付けられた思い出しかない。
 小柄だがロリではない。狼を毒舌で泣かす赤ずきんという感じ。ちなみに、モーとoは同期である。
 対戦格闘ゲームーーーいわゆる格ゲーが超絶に上手く、特にギルティギアシリーズでは滅多に勝てない。持ちキャラはブリジット。KOFなら不知火舞。ストⅡ系ならザンギエフ。ひとりだけ仲間外れがいる気がするのだけど・・・。




 Mがジェスチャーで、頭から何かを外す動作をする。
 ああ、ヘッドホンか。そういえば付けっぱなしだった。どうりでエミネムしか聴こえないわけだ。
 ヘッドホンを外そうとしたとき、Mが、今度は掌を開いた状態で前に出した。
 ”待て”、のように見える。
 ヘッドホンから手を離すと、Mは、うんうんと頷いてみせた。
 どうやら正解だったらしい。
 Mは、おもむろに携帯電話を取り出して、何かの操作をすると、すぐに僕に差し出した。
 携帯電話はテキストメモのアプリケーションが起動した状態になっており、
 そこには、
 『ジェスチャーゲームをするぞ!』
 という簡素な文面。
 携帯の液晶から顔を上げると、Mは、めちゃくちゃ楽しそうな顔をしていた。
 えぇー・・・。
 Mは僕から携帯を取り上げると、他の二人にも同じように携帯の画面を見せる。
 反対しろー、反対しろー、と僕は祈ったが、その甲斐もなく、二人とも縦に頷いていた。
 マジかよ・・・。
 まあ、どうせ暇なんだけどさ。
 ていうか、お前ら何しに来たの。
 あと、そろそろシャツか何か着たいのだけど。
 どうしようかなー、と思っていると、Mが再び携帯を差し出してきた。
 『そういえば、お前、ギター持ってなにしてたの』
 僕は返信するために、一旦、テキストメモをすべてクリア。
 少し考えて、返信を打ち込む。
 『なにしてたんだろうな・・・』
 本当に。
 ギターで素振りって。僕は馬鹿か。意味が解らない。
 ギターの弦で擦りむいた掌が、ひりひりと痛んだ。












 
 




 ーーーpert.2に続く。
 まさか続くとは・・・。
 なんで続くんだろう。
 書いてるうちに、どんどん余計な描写していっちゃうんだよなあ・・・。
 あと、ヘッドホン描くの忘れた・・・。

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 「良いな良いな 否って言いな・・・」とか韻を踏んでいると、
 「反抗期の子供みたいね」と笑われた 
 でも 胸を張って 僕は大人だ!なんて
 口が裂けても言いたくないし
 ていうか 言えないし
 
 ルールを重んじろ というルールに
 唾を吐き掛けて ぶっ飛ばされても
 自分を信じろ という鬱陶しさに
 忘れてた何かを思い出しても
 
 みたいな
 ん・・・
 
 「みたいな・・・」から先が思い付かねえ!
 見たいな と掛けようかな 
 見てみたいな 見てないか?
 見てみたいか?とか訊いてみたり
 まあ 良いや 没だ これは なんかもう 陳腐だし

 

 ---というメモを、某友人の部屋に置き忘れていたらしいのですが、
 それすら忘れて、ほかの詞とか書いたり書かなかったりしていると、
 次の日、某友人からメールで、

 『大胆な詞だな アリだ。
 曲が出来たら また連絡する』
 と言われました。

 後半は、まったく詞じゃないのだけど、まあ、良いか。べつに。アグレッシブな友人だなあ。
 途中まで書き掛けていて、
 しかし煮詰まっていた別の詩を丸めてゴミ箱に放り込むも外れたので、
 きちんと捨てるために立ち上がると、
 貧血で身体全体が左側に、ぐらりと揺れました。真下が見えました。明日は見えませんでした。
 僕が揺れると、僕以外も揺れて、ぐらぐら。音と衝撃 振動とウッドアイにキスを。ウッドアイは木目。
 視覚に頼っているなあと思うと、不意に、ウイリーしてみたい衝動に駆られ、
 気持ち悪く
  なり まし
  た
 ”気持ち悪くなりました”を文章としてでなく、図としてみると、”画としてみると”と書きたかった。
 ”下”という漢字に見えるように配置して、視覚遊び。遊ばないとね。
 
 『リリカルな詞を提供してくれ』とか言われてもね。
 よく解らないし。”よくわからないし”だとバランスが悪いので漢字に変換。いやだったけどね。
 『いつもの感じで良いから』とか言われてもね。
 リリカルなつもりはないし。

 出来ることと、したいことの葛藤に懊悩する22歳の時代が、いま来ています
 ちなみに、その前は”勝手気ままな21歳”
 年齢の前にサブタイトルを付けるのは、楽しいから
 やめられないので 困る振り とかしてみたり 
 来年は ”漆黒の23歳”とかーーー
 なぜだろう
 かっこいい と 痛い の ふたつの感覚 が せめぎあう ・・・
   
  

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 緊張の下で己自身を反復するように。

 「わたしがわたしであるためにわたしはわたしでなくてはならないわたしを定義するわたしがわたしであるためにわたしはわたしでいなくてはならないわたしがわたしであるためにわたしはわたしでなくてはならないわたしを定義するわたしがわたしであるためにわたしはわたしでいなくてはならないわたしがわたしであるためにわたしはわたしでなくてはならないわたしを定義するわたしがわたしであるためにわたしはわたしでいなくてはならないわたしがわたしであるためにわたしはわたしでなくてはならないわたしを定義するわたしがわたしであるためにわたしはわたしでいなくてはならないわたしがわたしであるためにわたしはわたしでなくてはならないわたしを定義するわたしがわたしであるためにわたしはわたしでいなくてはならないわたしがわたしであるためにわたしはわたしでなくてはならないわたしを定義するわたしがわたしであるためにわたしはわたしでいなくてはならないわたしがわたしであるためにわたしはわたしでなくてはならないわたしを定義するわたしがわたしであるためにわたしはわたしでいなくてはならないわたしがわたしであるためにわたしはわたしでなくてはならないわたしを定義するわたしがわたしであるためにわたしはわたしでいなくてはならないわたしがーーー」
 
 みたいなことを延々と考え続けて、どうにかなりそうだった中学生の頃の僕。
 そのときの必死さは、いまの僕にはない。
 記憶はあるが、現実感はない。
 厳密に言えば記憶すらもない。
 そうだったような気がする、という程度の印象しか残っていない。
 
 なんつーか、これは色んなことにあてはまるのだが、
 人間はーーー、というか動物は”繰り返す”。
 生活ひとつ取っても、非常に多くの行動を繰り返し、
 繰り返しを、繰り返し繰り返し、それが自然な状態になっている。
  
 状況と感性によって、そのときの印象は異なるが、
 同じようなことを延々と繰り返しているような気がする。
 歴史とかね。
 
 始まりは定かではないのに、終わりだけは約束されていて、
 しかし、終わりは唐突でーーー。

 まあ、人間には終わりがあるということです。
 テロメアでしたっけ?老化して、どうせ絶命します。
 いや、僕には絶命の経験がないのでよくわかりませんが、そういうことになっています。
 壮大などっきりかなー、僕は騙されないぞー?と思わなくもないのですが、
 死という現象の瞬間にライブで立ち会ったことはなくとも、
 画像や映像などで目にする死にはリアリティがありーーー
 いや、リアリティはありません。そこまで身近なものではない。
 しかし、軽視できない説得力が・・・、虚無という恐怖が明確に横たわっていて。
 死を現象としても、画像としても、映像としても知らなかったときには、
 概念として”やがてそうなる”程度の認識しかなく、
 好き勝手に生きて、いやになったら自殺しちゃえば良いんだし、とか軽く考えていましたが、
 虚無の、何も見出せないことを知ってしまった今となっては、まあ、わりと怖いです。
 忘れては思い出して、意識しては戦慄します。
 緊張感のある人生。たまに、ありがたみを忘れますけど。

 人間は終わりますが、社会は終わりませんね。
 社会というシステムが永遠なのかな?
 面白い構造だなあ、と思います。
 有限である人間が、無限であるシステムをつくるというのは。皮肉っぽくて。
 
 そういう意味では、社会は人間の意識そのものかもしれない、とか思わなくもありません。
 人間の意識は脳にあると言われていますが、突き詰めれば脳も細胞ですよね。
 でも、細胞自体には意識はありません。
 細胞が集合して、組織化するうちに、どこかで意識が発生しているわけです。
 社会も似ていて、社会そのものには意識はありませんが、
 社会を構成する要素に意識があって、それがルールというかたちで顕れている気がします。
 
 まあ、人間もシステムですしね。
 意識とか、思考なんてものは細胞や遺伝子の乗り物なわけですから。
 スタンドアローンのほうが効率が良いから、そうなっているだけで。
 そう考えると、肥大化した自意識なんてものは明らかに無用の長物なのですが、
 それこそが人間らしさであるような気もして途方に暮れます。

 漠然と繰り返してる場合じゃないんじゃねーのか、とか思いますが、
 漫然とロンドっている日々はありきたりで、でも、それはそれで悪くなかったり。
 お笑いでいうところの天丼とか好きだし。
 斬新さを、そもそも認識できない可能性もあるわけで、色々と眼が離せません。ほんと。
 学べるうちは学ばナイト!
 
 ---記事のタイトル、「学ばナイト!」にしようと思っていたのですが、
 韻を踏みたかったので現行のタイトルに変更しました。
 こういうことは、多々あります・・・。
 良い子の皆さんは真似をせずに、素直に直感を重視しましょうね。約束だよ!
 じゃないとクオリティが下がるよ(泣笑)!

 意味あんのかなー、人生。とか。
 べつに、僕が死んでも世のなかは何事もなく繰り返していくのだろうけど、
 それ自体はかまわないのだけど、
 だったら、そもそも人間と社会には絶望的なまでに接点がないんじゃないの、みたいな。
 果てしない距離を感じる今日この頃。
 間違いたくねーなあ、と思うことが間違いなら、どうすりゃ良いんだよ、みたいな。

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プロフィール
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Regnen
年齢:
37
性別:
男性
誕生日:
1986/12/14
職業:
学生
趣味:
古い映画のパンフレット収集
自己紹介:
宮崎在住の22歳。
趣味は曲学阿世。
座右の銘は酔生夢死。
最近、
日記の意義を見失い、迷走中。
眠れない夜に更新。
優しくなりたい。
ドムドムハンバーガーが大好き。
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