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いや、説明とか苦手です
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 きのうの僕におさらば。
 きょうからは新しい僕。
 いわばニュー僕。
 なぜだろう。
 新しいはずなのに、この響きの古臭さは・・・。
 ニューって・・・。
 ”レッツゴー”くらい古い語感だなあ・・・。

 まあ、それは良いです。僕のセンスのなさは、さておき。
 
 思うのですが、他人には、さらに別の顔がありますよね。
 きょうはその話です。たぶん。
 
 しかし、書いてるうちに脱線する可能性もなきにしもあらず。
 そうならないように努力、はしません。
 ”書いたこと”は、”そのときに書きたかったこと”なので、
 まあ、過去を消すのは色々と思うところがあるので。
 ブログを終わらせるか、別のキャリアに引っ越すまでは残したいと思います。
 反転を覚えたおかげで削除も減ったし。

 言うまでもなく他人というのは埒外で、まったく理解できない存在ですが、
 (この場合の他人は”自分以外”と定義します)
 しかし、極稀に友情が芽生えたような気がしたり、
 相思相愛しているように錯覚されたりしますが、
 まあ、それでも完全にお互いを理解するには至らないと思います。
 基本的にも、例外的にも一方的な感情のやり取り。
 「違う!愛とは素晴らしいものだ!」という人はぜひ僕を説得してください。
 僕は他人を嫌いなんじゃなくて、好きになれないだけです。
 だって、油断できないしね。緊張状態はしんどいので切り捨てただけです。
 まだわずかに他人との関係を保っていますが、それは自分自身の延長という感じ。
 文字通りに、他人じゃない。ただならぬ関係というわけです。あとは仕事。
 ほかは、まあ、たまに色々ありますが、ほとんど静かな人間関係です。
 
 ただ、その例外的な”わかった気になれる”ような、
 ”相手からも自分は信頼されている”と思えるような、
 そういう奴にも、
 ぜんぜんわからなくなるような、
 積み上げてきたものがすべて幻だったと思ってしまうような瞬間があって、
 それが、
 ”自分以外の他人と接している親しい人間(友人でも恋人でも良いですけど)”です。
 これは未知だし、干渉しようがないし、そして遠慮してしまうので”他人”と言うほかありません。

 自分以外の人間と接する友人は、まったく別のキャラです。
 友人の友人の前では、友人は、友人の友人の友人になっているわけです。
 そんなの、別人です。
 そんなの、他人です。
 距離が離れていくのを感じます。
 さみしいので、いやです。
 格好悪いので、口には出しませんが、いやです。
 嫉妬みたいにメラメラした感情じゃなくて、
 誰もいない部屋みたいな、がらんとした感情です。
 やけに音が大きく反響するような。
 
 でもまあ、当然です。
 個人を認めるということは、他人と比較するということですから。
 それは、区別ですから。
 それは、差別ですから。
 平等なんてありませんから。
 公平なんてありませんから。
 均等なんてありませんから。
 僕もやっていますから。
 ですから。
 わかる。
 でも、いやだ。

 なんか、最近、わがまま度が増していくのを感じるなあ。自意識が不安定だからかなあ。
 ”いやだ”だってさ。子供かよ。馬鹿かよ。という感じ。ハローグッバイ並に意識がばらばらだもの。
 考えなくちゃいけませんね。
 いちばん良い方法を。
 そこが向き合うべきポイント。
 わかってはいるんですけれど。
 まあ、楽じゃないっていうか。
 

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 なんつーか、さすがに気付いちゃったんですよね。
 好きとか嫌いなんてのは、ずいぶん勝手な言い分だってことに。
 だって陳腐ですよ。不完全だもの。
 自分の気持ちには自分で決着を付けるほかにない。
 まったく日和っていました。ぴよぴよです。初代ストⅡの。ボタンを連打しないとね。
 やられてしまうから。対戦相手はアンノウンですが、乱入は絶えないので。
 連コインしようにも赤貧。あとはないってわけです。遊ぶ余裕もありません。ゲームなのにね。
 負けないことを目的にすると、そうなる。
 ただ、負けてもいいと思えるほど世のなかは優しくない。
 優しくないものにたいして、僕は優しくなれない。ならない。
 憎悪とか嫌悪が瞬間的に発生。燃えるように。
 すぐに鎮火。残るのは記憶。無気力。諦め。絶望。気持ちの重さに比例した速度で沈んでゆく。
 時間が経って過去の僕と共に引き上げられる最新の僕はまるで他人のように冷静かつ他人のようによくわからない。というか他人だ。
 他人に踏み込むのはしんどい。でも必要。しかししんどい。さりとて必要。とはいえしんどい。
 自転車で木星までいくようなものだ。荷台に恋人を乗せて。元ネタが解る人は挙手するように。
 そんな時代が、まあ、いつかはくるかもしれないが、いまはまだ無理だろう。
 そんなわけで、とりあえずの結論が出ました。
 考える限り、孤独は必然です。
 もっと言うと、孤独について考えること自体が孤独。
 孤独は孤独を呼ぶというわけです。
 ロンリーイズオンリー。
 
 色々と全力で放り投げ出したくなってきました。
 薄氷の上を歩くような。
 ていうか、氷の下にはなにがあるのだ。
 頑なに怖れてきたが。

 まあ、実験してみるとします。
 披検体は僕。
 期間は解るまで。あるいは納得できるまで。もしくは諦めるまで。
 さもなくば死ぬまで。
 そうなれば、それまで。

 おさらば。

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 非常に儚く、早く、いまにも消えそうなものがたくさんある。
 あるなあ。
 困る。
 いやだなあ。
 困るのは、いやだなあ。
 消えそうなものが、やがて消えることがいやなのではなく、
 消えそうなものが、やがて消え、それによって自分が困るのがいやな、
 そんな自分がいやだなあ。
 優しくなくて。
 好きになれなくて。
 楽しめなくて。
 すべてを台無しにするのはいやだなあ。
 間違えるのは。
 それに気付かないのは。
 悲しいのは。

 結局、
 自分のために生きているような奴は、
 自分のためにしか生きられない奴は、
 限りなく幸福から遠ざかる宿命にある、という気がします。
 自己満足には限りがないし、自己実現は果てしないし。
 
 手っ取り早く幸福になるためには、他人のために生きることですね。
 他人と自分を同一化して、そいつを歓ばせれば、それが自分の幸福に直結しますから。
 感情移入の極地に至れば、まあ、自意識は希薄になりますが、
 案外、それが最も幸福への近道と言えるのかもしれません。
 消去法ですけれどね。
 不幸でなければ幸福に近い状態になるだろう、みたいな。
 
 だから、人は愛し合うのでしょうか。
 自然に、堂々と相互に依存するのを正当化するために、
 まあ、セックスは都合が良いですしね。
 夢中になって溺れれば、自意識がばらばらになって、細かいことは忘れられるし。
 性別が別で、共通意識としての発情があって、
 社会常識としての結婚という制度があって、
 禁忌には抜け道が用意されていて。
 現実逃避は、情けなく恥ずかしいことであるという意識である一方、
 必要悪として見逃されているという構造があります。
 麻薬みたいなものですね。
 座薬みたいなものかも。
 いや、座薬は違いますね。あれは良薬ですから。
 泣きたくなりますけれど。痛みと情けなさで。

 女性の権利が拡大されたことも大きいでしょうね。
 というか、最初から拡大する必要はなくて、
 もともと誰もが持っている権利に今更のように気付いただけとも言えますが。
 というか、何年も前から同じ人が同じことを言っているだけのような気もしますが。
 なんつーか、その原動力は単にコンプレックスなのでしょうけど、
 目的を忘れて、手段としての攻撃に没頭するのはどうかと思いますね。
 誰とは言いませんが。
 ちゃんとやれよ、とは思います。
 
 歴史を紐解けば解りそうなものですが、
 女性の主張で槍玉に挙がりがちな”男尊女卑”というのは、
 戦時中に形成された意識です。たぶん。
 男が武器を携えて戦いに行き、女は男の留守中に家を守る。みたいな。
 その意識が戦後の復興後にも維持され、
 結局、現在に至るまでずるずる引きずられているだけです。
 理由は都合が良かったからとか、
 それでなんとかなっていたからとか、そんな感じでしょう。
 
 そういう背景があったので、いままで結婚という制度が確立されてきました。
 しかし、ここにきて結婚という制度の意義が揺らいでいるみたいです。
 まあ、僕は男なので憶測ですが、
 結婚って、女性にとっては色んな点で不利な部分が多いと思います。
 端的に言ってリスキー多売という感じ。あ、いまのはギャグです。
 わかりづらいと思ったので自己申告しましたが。
 
 女性の場合、それまでの生活を続けていれば自由だったのに、
 子供の負担があったり、男性中心のなかで戸惑うこともあるでしょう。
 好き好き大好き超愛してるでも、ストレスはゼロにはならないと思います。
 そういうのが嫌な人が家庭を放棄して、蜂起したのが”女性の権利”の主張というわけですね。
 現実において愛というのは、言葉以上の力を持ちませんから。
 でも、現実逃避している人は別ですけれどね。
 ただ楽になりたいだけの人は、
 自分のことも、相手のことも、現実さえも気にしないので、勝手に幸福になれます。
 僕は、そういう一方的な好意と行為は害悪だとは思いますが、
 そういうのが好きな人もいるのも現実です。
 需要と供給の、眼に見えない歯車が噛み合っているのでしょう。
 気持ちが冷めない限りは幸福だと思います。
 それもリスキーだとは思いますが、まあ、人間関係は基本的にリスキーですし、
 少子化と高齢化で拍車が掛かっているので、たいしたことではないのかもしれません。
 
 まあ、共通意識としては、
 結婚はしんどいですが、そういうものだと思っているし、
 世のなかのルールだし、自分の親も結婚したわけだし、
 その過程と結果で自分が誕生したわけだしーーー、ということと、
 単純に恋愛の延長上に捉えている、というのがあるような気がします。
 あと、結婚すれば安定すると安易に思い込んでいるような気もします。
 テレビとかで意識誘導しているし。
 せいぜい子供に自分を投影したり、依存したり、私物化したりして悦に入るくらいでしょう。
 不景気なので、それもリスキーですが。
 
 一方で、男はというと、
 結婚して、自分が働いて、妻子を養うというのが、
 言わば常識的な”大人像”なのですが、
 しかし、前述のように女性の意識が変わってくると、
 互いにしんどいだけで、合理的ではありませんね。
 愛と不都合に一生を費やすという構造の完成です。

 なんつーか、時代が変わって、
 結婚の意味合いも変わっているのに、いまいち気にしていませんよね。
 結婚というのは、まあ恋愛もファクターとしてありますが、
 美化されているだけで、それ自体の本質はシステムです。パートナーシップという。
 
 個人化が進み、結婚の意味が見失われつつあります。
 あんまり意味ないというか、しんどいだけのような気もします。
 少なくとも、合理的ではありません。
 婚期を躊躇うほど、出産適齢期からは遠ざかりますし。
 かといって17歳では経済能力がありませんし。
 あと17歳は法的には児童だし。
 安易ですが、
 いっそ女性は17歳、男子は18歳になったら確実に結婚させて、
 2年以内に子供を設けないとペナルティ、みたいな法律を制定しなければ、
 あと100年くらいで人類は滅びるかもしれませんね。
 
 そうでなくとも、
 このまま少子化進行すると日本は国として立ち行かなくなりそうですね。
 世界には日本のポストを狙っている国はたくさんありそうですし。
 もっと色んな国で紛争が深刻化したら、勢いで日本も潰しちゃえとなるでしょう。
 ならないか。
 ゲームじゃないんだから。
 なるかもしれませんけれど。
 ゲームじゃないのに。
 
 優しさってなんだ。
 いまにも消えそうなものだ。

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 浪費家の友人かく語りき。

 「おれがモノを欲しいんじゃない。
 モノがおれを欲しがっているんだ」

 応えて、僕。

 「それは妄想だと思うな」

 友人は爽やかな笑みを浮かべ。
 
 「妄想でも良い」

 僕は呆れ半分。

 「なら、良い」

 もう半分は、肯定。

 ちなみに、浪費家の友人が買ったものは何かと言うと、
 ドリームキャスト3台。
 状態は並。
 小計7500円(税別)。
 
 「3機も要るの」

 いや、要らない。反語。反語部分は言わないが。
 友人が自分の金で何を買おうが自由だしな。
 イスラエルから水爆を4つ購入したとしても僕は友人の意思を尊重するが、
 しかし、個人的な興味の問題を解決するための質問くらいは構わないだろう。
 構うか?そんな奴は振り出しに戻っていれば良い。むろん、いまの言葉に深い意味などない。
 
 「3機は要るね。
 いや、家に既に1機あるのを含めれば、4機か」
 
 さらに1機ぶんのポテンシャルを秘めていたか。
 
 「用途の見当が付かないのだけど」
 
 積み上げて塔でも作る気か。
 さぞかし前衛的なオブジェと化すだろう。
 それはそれで少し見てみたい気もする。
  
 「いやいや、飾って眺めるんだよ。
 そうすると癒されるんだ」
 
 今更あえて言うまでもないことだが、世界には多様な価値観が存在する。
 いや、今の言葉に深い意味などない。ないが。

 「そうか」

 正直、さっぱり友人の価値観には共感できないが、
 しかし、ここは適当に頷いてやるのが大人というものだろう。
 僕は殊更に大儀そうに首を縦に動かした。
 
 「おお、わかるか」

 僕は頷きながら言った。

 「わからん」
 
 「わかれ」
 
 強制してきた。
 
 「わかめ」

 ボケてみた。

 「豆腐」

 ボケにボケを重ねてきた!

 「ねぎ」

 さらにボケを重ねてみた。 
 
 「味噌汁の具か!」  
  
 高度すぎる突っ込みが返ってきた。

 「僕は豚汁のほうが好きだけれど」

 「どうでも良いよ!」

 「ところで、地方によって”豚汁”を、
 ”とんじる”と読むかーーー」
 
 「ーーー”ぶたじる”と呼ぶか」

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 なんつーか、めちゃくちゃ乱暴な言い方になりますが、
 ”がんばり”というのは、本質的に無駄なものだと思います。

 なんでもかまわないですが、”なにか”を、自分なりに、どれほどがんばったところで、
 自分と関係のある、あるいは自分とは関係のないところで、
 もっと効率の良いやり方や、合理的なやり方があったりして、
 じゃあ、自分が無理をしてがんばらなくても良いじゃん、となってしまいます。
 「そんなに必死になっちゃって、馬鹿じゃん」みたいな虚無感。
 当然です。自分が世界一の頭脳を持っている、と自認しない限り、
 不特定多数の誰か>自分の図式は覆らないわけですから、
 その虚無感は極めて順当だと言えます。
 
 ここで、「いやいや、がんばるのは素晴らしいよ。きみのそれは怠けるための方便に過ぎないよ。さぼるな!」というようなことを思う人がいるかもしれないので、断っておきますが、
 それは、はっきりと自己満足なので、そんなものを押し付けられても困ります。
 ここで、自己満足ということばに過剰に反応する人は、まあ幼稚なので無視しますが、
 ”自分なりのがんばり”はすべて無駄であるということを自覚すべきだと思います。
 どれほどがんばったところで、それはどこまでも自分の問題なのだから、
 それを他人に評価してもらいたい、というのは、なんつーか、甘っ垂れています。
 端的に言えば我侭なので、ひたすら面倒臭いです。
 そういうのは恋人の胸のなかか、ブログでこぼしてください。

 「がんばることに意味があるんだよ!」とか、ぜんぜん意味がわかりません。
 その”意味”は、そいつにしか認識できない程度の意味しか持たないので、
 まったく共感できずに途方に暮れます。
 価値観は60億パターン以上あるというのに、
 自分がそのど真ん中であると疑わない神経の図々しさが、いっそ羨ましくすらあります。
  
 僕にとって、”がんばった”というのは誇りです。
 口に出して主張するのは無粋で、格好悪いと思い込んでいます。
 逆に言えば、がんばったのを口に出さない僕って格好良いと思い込んでいる、とも言えます。
 自己満足なので、自分だけがわかっていれば良いことなのだと思います。
 自分の能力も、感情も、自分しか理解できないのだから、自分で自分を評価して、
 自分以外と折り合いを付けるしかありません。
 言わば自己管理です。
 自分をコントロールできるのは、自分だけですから。
 他人も、薬も、余計なものでしかありません。
 
 ーーーという価値観の持ち主である僕としては、
 「おれだって/わたしだってがんばっているのに!」というような、口さがのない連中は、
 北極の崖に全裸の状態で片手でぶら下がって助けを求められたりしても無視したくなります。
 無視するかどうかは、実際にその状況にならなければ解りませんけれど。
 
 誰かのためにがんばるのも、その誰かに喜んで貰いたいからで、
 誰かが喜ぶと嬉しい自分のためにがんばっているわけで、
 要するに、幸福とは自己実現による自己満足だと言えます。
 
 やりたいことをやるために、
 貰いたいものを貰うために、
 しあわせになるために、
 がんばるのは勝手ですが、本当に身勝手なので、勝手にすると良いと思います。
 僕は、僕なりに勝手にしますから。
 まあ、でも人類は無駄なことばかり繰り返して、ここまで進化したのですよね。
 実感はありませんけど。
 娯楽も、まあ、生存条件には直結しないし。
 文化と言われるものは、たいてい無駄なものです。
 かく言う僕も、常々のように無駄なことばかり考えています。
 無駄なことばかりしています。
 おそらく何の意味も為さないであろう虚無な日々を送っています。
 こうして書くと、なんだか、いまにも絶望して首を吊って頚椎を折って全身を弛緩させた挙句に失禁し、、だらりと舌を垂らしそうな毎日ですが、まだそうなっていません。

 人間の意識がそうさせるのか、適宜に現実から逃避することによって、
 むしろ現実に直面しています。
 無駄なことをするために、無駄なことをする人生。
 
 ここで、主観と客観の話をしましょう。
 客観的事実と、主観的真実のあいだには、多少の齟齬が生じることがあります。
 誰かにとっては無駄なことでも、
 別の誰かにとっては掛け値なしの意味を持ったりします。
 意識は、それぞれ独立している。みたいな「。
 個人化、とでも言いましょうか。
 尺度とか、基準値とか、統計とかは存在しません。基本的に。
 なぜなら、本人すら把握していない自意識もあるからです。
 そのわりには根源的な欲求とか、本能的な恐怖とか、
 まあ、その辺は共通項と言えますが、そのほかは、すべて一方通行です。
 解るのは勝手ですが、解り合うのは不可能です。絶対とは言いませんが。
 瞬間的に同じような連想をすることはあるかもしれませんし、
 脳の研究が進めば、あるいは意識を共有できるかもしれませんし。
 まあ、そんなことになっても、僕は絶対に自意識を漏洩したりはしませんけどね。
 そんなの街中を全裸で歩き回って互いの性器を性別に関係なく舐め合うようなものです。
 プライバシーという尊厳は、自己の存在を保つ上で欠かせない用件です。僕にとってはね。
 まあ、携帯電話と脳科学が融合しないことを祈ります。食い合わせが良すぎるので。
 
 まあ、いかなる現象も観測者によって意味を変える、ということです。
 ということは、現象自体は特定の意味を持たない、ということにもなります。
 まさしく無駄って奴ですね。
 それを自覚しながら、
 つまり、生きることは無駄であると自覚しながら生きるのは、
 なんつーか、死にたくなったときの「いや、死んじゃ駄目だろう」という死に対する抵抗を根こそぎ奪う、
 圧倒的な説得力を伴う「なんで?」を生じさせますが、
 なぜ生きているのか、と訊かれても、生きているから、と答えるほかになく、
 では逆説的に、なぜ死なないのか、と訊かれても、同様に生きているから、と答えるほかにありません。
 素直に、生きていたいから、と完全なる自分の意思で答えるには、
 僕も、僕以外も優しさが足りないように思うからです。
 ここで臓器移植の話や、脳死患者の話や、借金苦を反論材料に選択するような人は、
 まさかいないとは思いますが、いたらコントロールします。
 仲良くなれそうにありませんし、仲良くなりたくもありません。それを言いたくもありません。
 すべてが憂鬱かつ面倒です。
 でもまあ、知りたくはあります。
 ん?
 あれ、だから僕は生きているのか?
 知りたいから・・・?
 
 適当かつ何気なく文章を暴走させるに任せていたら、
 なんか、うっかり自意識がポロリしました。
 現実感が多少戻って来たような感覚。
 虚構の現実感が増してきたせいで、相対的に、現実に現実感が薄れてきて困ります。
 踏みとどまるのも楽じゃないなあ、とか。
  
 でも、なんとなく”知りたい”と”死にたい”って、語感が似ていますね。
 不吉な。

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プロフィール
HN:
Regnen
年齢:
37
性別:
男性
誕生日:
1986/12/14
職業:
学生
趣味:
古い映画のパンフレット収集
自己紹介:
宮崎在住の22歳。
趣味は曲学阿世。
座右の銘は酔生夢死。
最近、
日記の意義を見失い、迷走中。
眠れない夜に更新。
優しくなりたい。
ドムドムハンバーガーが大好き。
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