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いや、説明とか苦手です
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 なんつーか、めちゃくちゃ乱暴な言い方になりますが、
 ”がんばり”というのは、本質的に無駄なものだと思います。

 なんでもかまわないですが、”なにか”を、自分なりに、どれほどがんばったところで、
 自分と関係のある、あるいは自分とは関係のないところで、
 もっと効率の良いやり方や、合理的なやり方があったりして、
 じゃあ、自分が無理をしてがんばらなくても良いじゃん、となってしまいます。
 「そんなに必死になっちゃって、馬鹿じゃん」みたいな虚無感。
 当然です。自分が世界一の頭脳を持っている、と自認しない限り、
 不特定多数の誰か>自分の図式は覆らないわけですから、
 その虚無感は極めて順当だと言えます。
 
 ここで、「いやいや、がんばるのは素晴らしいよ。きみのそれは怠けるための方便に過ぎないよ。さぼるな!」というようなことを思う人がいるかもしれないので、断っておきますが、
 それは、はっきりと自己満足なので、そんなものを押し付けられても困ります。
 ここで、自己満足ということばに過剰に反応する人は、まあ幼稚なので無視しますが、
 ”自分なりのがんばり”はすべて無駄であるということを自覚すべきだと思います。
 どれほどがんばったところで、それはどこまでも自分の問題なのだから、
 それを他人に評価してもらいたい、というのは、なんつーか、甘っ垂れています。
 端的に言えば我侭なので、ひたすら面倒臭いです。
 そういうのは恋人の胸のなかか、ブログでこぼしてください。

 「がんばることに意味があるんだよ!」とか、ぜんぜん意味がわかりません。
 その”意味”は、そいつにしか認識できない程度の意味しか持たないので、
 まったく共感できずに途方に暮れます。
 価値観は60億パターン以上あるというのに、
 自分がそのど真ん中であると疑わない神経の図々しさが、いっそ羨ましくすらあります。
  
 僕にとって、”がんばった”というのは誇りです。
 口に出して主張するのは無粋で、格好悪いと思い込んでいます。
 逆に言えば、がんばったのを口に出さない僕って格好良いと思い込んでいる、とも言えます。
 自己満足なので、自分だけがわかっていれば良いことなのだと思います。
 自分の能力も、感情も、自分しか理解できないのだから、自分で自分を評価して、
 自分以外と折り合いを付けるしかありません。
 言わば自己管理です。
 自分をコントロールできるのは、自分だけですから。
 他人も、薬も、余計なものでしかありません。
 
 ーーーという価値観の持ち主である僕としては、
 「おれだって/わたしだってがんばっているのに!」というような、口さがのない連中は、
 北極の崖に全裸の状態で片手でぶら下がって助けを求められたりしても無視したくなります。
 無視するかどうかは、実際にその状況にならなければ解りませんけれど。
 
 誰かのためにがんばるのも、その誰かに喜んで貰いたいからで、
 誰かが喜ぶと嬉しい自分のためにがんばっているわけで、
 要するに、幸福とは自己実現による自己満足だと言えます。
 
 やりたいことをやるために、
 貰いたいものを貰うために、
 しあわせになるために、
 がんばるのは勝手ですが、本当に身勝手なので、勝手にすると良いと思います。
 僕は、僕なりに勝手にしますから。
 まあ、でも人類は無駄なことばかり繰り返して、ここまで進化したのですよね。
 実感はありませんけど。
 娯楽も、まあ、生存条件には直結しないし。
 文化と言われるものは、たいてい無駄なものです。
 かく言う僕も、常々のように無駄なことばかり考えています。
 無駄なことばかりしています。
 おそらく何の意味も為さないであろう虚無な日々を送っています。
 こうして書くと、なんだか、いまにも絶望して首を吊って頚椎を折って全身を弛緩させた挙句に失禁し、、だらりと舌を垂らしそうな毎日ですが、まだそうなっていません。

 人間の意識がそうさせるのか、適宜に現実から逃避することによって、
 むしろ現実に直面しています。
 無駄なことをするために、無駄なことをする人生。
 
 ここで、主観と客観の話をしましょう。
 客観的事実と、主観的真実のあいだには、多少の齟齬が生じることがあります。
 誰かにとっては無駄なことでも、
 別の誰かにとっては掛け値なしの意味を持ったりします。
 意識は、それぞれ独立している。みたいな「。
 個人化、とでも言いましょうか。
 尺度とか、基準値とか、統計とかは存在しません。基本的に。
 なぜなら、本人すら把握していない自意識もあるからです。
 そのわりには根源的な欲求とか、本能的な恐怖とか、
 まあ、その辺は共通項と言えますが、そのほかは、すべて一方通行です。
 解るのは勝手ですが、解り合うのは不可能です。絶対とは言いませんが。
 瞬間的に同じような連想をすることはあるかもしれませんし、
 脳の研究が進めば、あるいは意識を共有できるかもしれませんし。
 まあ、そんなことになっても、僕は絶対に自意識を漏洩したりはしませんけどね。
 そんなの街中を全裸で歩き回って互いの性器を性別に関係なく舐め合うようなものです。
 プライバシーという尊厳は、自己の存在を保つ上で欠かせない用件です。僕にとってはね。
 まあ、携帯電話と脳科学が融合しないことを祈ります。食い合わせが良すぎるので。
 
 まあ、いかなる現象も観測者によって意味を変える、ということです。
 ということは、現象自体は特定の意味を持たない、ということにもなります。
 まさしく無駄って奴ですね。
 それを自覚しながら、
 つまり、生きることは無駄であると自覚しながら生きるのは、
 なんつーか、死にたくなったときの「いや、死んじゃ駄目だろう」という死に対する抵抗を根こそぎ奪う、
 圧倒的な説得力を伴う「なんで?」を生じさせますが、
 なぜ生きているのか、と訊かれても、生きているから、と答えるほかになく、
 では逆説的に、なぜ死なないのか、と訊かれても、同様に生きているから、と答えるほかにありません。
 素直に、生きていたいから、と完全なる自分の意思で答えるには、
 僕も、僕以外も優しさが足りないように思うからです。
 ここで臓器移植の話や、脳死患者の話や、借金苦を反論材料に選択するような人は、
 まさかいないとは思いますが、いたらコントロールします。
 仲良くなれそうにありませんし、仲良くなりたくもありません。それを言いたくもありません。
 すべてが憂鬱かつ面倒です。
 でもまあ、知りたくはあります。
 ん?
 あれ、だから僕は生きているのか?
 知りたいから・・・?
 
 適当かつ何気なく文章を暴走させるに任せていたら、
 なんか、うっかり自意識がポロリしました。
 現実感が多少戻って来たような感覚。
 虚構の現実感が増してきたせいで、相対的に、現実に現実感が薄れてきて困ります。
 踏みとどまるのも楽じゃないなあ、とか。
  
 でも、なんとなく”知りたい”と”死にたい”って、語感が似ていますね。
 不吉な。

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