今日は雛祭りですね。
この行事の由来は確か古事にまつわる禊だったと記憶していますが、
しかし、雛壇に並ぶ無数の人形の目は、ちょっと異様で、
幼かった頃の僕は専ら恐怖を覚えていました。
そういえば、かくれんぼをしていた子供が、雛人形を仕舞う箱に隠れたまま姿を消してしまった、という神隠し系の怪談を思い出しました。いま。オチは、数年後に再び箱の中から現れた、だったような。うろおぼえ。
最近は、行事になると何かと理由を付けて姉さんが飲酒するので、その後始末をするのが怖いというか嫌だなあ・・・。なんていうのか、自覚が足りないと思うのです。それは僕もですけど。
ぐだぐだしてるのが楽しいんです。
それ以上は、こわいんだ。
本当、下手な怪談よりもよっぽど怖いですよ。
だから、僕は言いません。言いたくなるときもありますけどね。
少なくとも、ごまかせるうちは、ごまかしたいと思います。
誰をって、もちろん自分自身をね。
なんつーか、日本人の傾向として、奥ゆかしいというか、
ぶっちゃけて言うと引っ込み思案で、もじもじしていて、
ああもう焦れってーな!という側面があって、
それはあまり良いことではないみたいです。
どうやら自己主張のなさ、と受け取られてしまって、
そのまま社交性のなさ、という属性に変換されるようです。
しかし、自己主張があると、そっちのほうが社交性に欠如していそうな印象がありますが、
まあ、僕が考えたところで無駄というものでしょう。
世の中的には、意味が真逆になるくらいは誤差の範囲内です。
印象は与えられるものではなく、刷り込まれるものですからね。
いつの間にか刷り返られていても不思議はありません。
矛盾当然サブリミナル印象。
相反したな、と思っても頷けば返ってくるのは微笑み。
納得を犬に喰わせてヘラヘラとした幸福を。
暖かい睡眠不足。
常識ですね、世の中的には。
まったくクソな世のなかですがーーーおっと、口が過ぎました。
まあ、とにかくルールのなかで生きることは肝要です。
そう教わりましたからね。義務教育で。
学校というのも相当にクソみたいな場所でしたがーーーおっと。
まあ、少しは得るものがあったので、まったくの無駄というわけではありませんでした。
どういうかたちであれ、思春期に多くの他者の思考に触れることは有意義だと思いますから。
あれ、なんの話だっけな?なんか普通に愚痴っていましたが。
気を取り直して本題に入りたいと思います。
言いたいことを言わないって、わりと大切だと思うんです。
言葉自体は単なる文字の連なりや記号に過ぎませんが、
人間の想像力はそこに言葉の持つ意味以上の意味を見出してしまいます。
その結果、自分の想定していた以上に相手に影響を与えてしまうことが多々あります。
影響って、いま、ぼかして書きましたけど、
これは相手を傷付けてしまうことがある、という意味です。
要するにデリカシーの話です。
言いたいことを言うと傷付く人がいる、という話です。
いや、そいつが勝手に傷付いているだけだろ、知ったことかよ、と思いますか?
まあ、自由ですけど。
僕は、ちょっと偽善者なので、いやなんです。そういうの。
押し付ける気はありませんけどね。
全てを言葉にする必要はないと思うんです。
臆病者の僕としてはね。
ただまあ、だからといって暴力に拘泥するのは論外ですけれどね。見苦しいし。
わかりあえないのがつらいなら、かわいそうですが処置なしです。
優先順位を見つめ直してみると良いと思います。
いちばん大事なものと、いちばん欲しいものが同じな人は幸福ですが、
そうでない人は地獄ですね。
そして、たいていの人が地獄です。
でもまあ、大事なものが特にない人は幸福でも地獄でもなく、ふわふわしているだけです。
僕みたいに。
どこかにあるはずの欲しいものを、こころのなかできらきら光る宝物に美化してーーー
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