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いや、説明とか苦手です
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 なんつーか、ふと去来した温かいものを表現したいのだけれど、
 うまく言葉に出来なかったりして、
 仕方なく絵を描いたり、
 仕方なく音楽を奏でたりして、
 そんな曖昧な誤魔化しの集大成が芸術の起源であり、
 また同時に限界でもあるんじゃないかなー、とか。
 
 ところで、絵を描く作業って彫刻を彫る感覚と少し似ている。
 まあ、別に絵も彫刻も専門というわけではないので、印象のレベルにすぎないけれど。
 余分なものを削ぎ落とすところとかね。
 ”かたち”が視えていても、はっきりとした確信はないわけで、
 それが筋肉なのか、贅肉なのかは触ってみるまでよく解らない。
 才能によるのかもしれないけれど。
 
 なんつーか、僕は、
 創造というのは常に頭のなかでしか行われていないと思っているフシがあり、
 実作業のほうを疎かにしたりすることがある。
 文章も、絵も、音楽も、映像も、まず完成形(のイメージのこともある)が頭にあり、
 それを現実に再現しているだけなんだから、
 当然、純イメージ(頭のなかの完成形)からは劣化する。意味ねーなー、とか。
 したがって、”上手い奴”というのは、
 ”頭のなかを再現する技術が上手い奴”であり、発想力とは無関係である。みたいな。
 とはいえ、別にイメージやモチーフがなくても、
 なんとなく手癖で手を動かしているだけで絵は描けてしまったりして、よく解らないフシギ。
 何もないものを膨らませる作業。とんち?

 ところで、まったく関係ないが、
 心って何だろう?
 どこにあるのだろう。
 脳か?
 脳下垂体か?
 しかし、人間のからだは無数の細胞によって構成されている(らしい)。
 からだのどこかに心があるとするのなら、細胞すべてに心がなければおかしい。
 細胞すべてに心があるとすれば、心がーーー、
 というか意識?よく解らないが、とにかく主観がひとつなのはおかしい。
 統制された意識があるというのがありえない。
 そこで考えたのだけれど、
 人間には心などないのではないか。
 五感+記憶が反応した情報をフィードバックする感覚を”心”と名付けただけで。
 五感と記憶を失えば何も”感”じないのではないのだろうか。
 記憶もないから思考は言語化できないし。
 その状態でも何かを認識できるのだろうか。
 その答えを知るには人体実験しかないので、倫理的に検証は不可能である。
 でも、誰かこっそりやってそうだけどね。ナチスとか。カルト宗教とか。
 たぶん宗教における”無の境地”とかって、そういうことだと思う。
 断食とかね。
 アプローチが違うだけで、本質は同じ概念を掴もうとしている、んじゃないかな。
 いや、よく解んないですけど。
 そんな感じがするなあ、という憶測、を含んだ妄想。
 
 結局、何が言いたいのかと言うと、
 心というのは、
 ”肉体的な条件が揃った段階で自然発生する意識”ではないか、的な。
 科学的なアプローチーーー、
 AIとか、人工知能的というか、プログラムを乗せて走らせる感じじゃなく、
 ”芽生える”というか、化学的に言うと”発生”する感じ。
 ということは、ロボットに五感を与えて、
 メモリとHDDを積めば、”心”が芽生えるのでは?とか。
 それでロボットに心が芽生えなければ、
 人間は、五感+記憶以外の何かを認識していることになる。
 しかも、その”何か”が心の”コア”である可能性が高い。
 しかし、五感以上となるとーーー、4次元?
 とすると、時間か?
 それ以上か?5次元?もうワケが解りません
 
 記憶もほとんどなく、それゆえ五感も未発達な存在ーーー、
 まあ、赤ちゃんですけど。
 彼らは泣いていますね。
 あれは、心がそうさせているのか、
 それともーーー・・・

 と、今回は特にテーマを設けるでもなく、
 特にまとめるつもりもない思考を、ただ垂れ流すという暴挙に出てみました。
 僕は普段、こんなことばかり考えているというわけですね。アホですね。
 独断と偏見に満ち満ちた内容に怖れ慄くこと必至(僕が)。 
 

 

 
 

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 更新さぼりまくり。
 でも、なんか最近”書きたくない期”なんですよね。たぶん。
 モニタを見るのも嫌ですから。
 まあ、繊細っていうか、結局は自意識過剰なのですけど。
 なんかもう駄目なんですよね。
 ほかの人のブログにコメントを書くのは平気なのですけど。
 なんつーか、負担が違うんですよね。
 すべてを自分のことばで表現するのと、他人のことばに乗っかるのでは。
 背負っているものが、ぜんぜん違う。
 まあ、背負いすぎなんですけれどね。僕が。勝手に。
 なにをそんなに気にしているんだっていう。
 
 反対に、”書きたい期”もありますけど、そのときは必死ですね。
 ことばを逃さないように。
 考えるごとに、思考が感情に遅れるので。
 うーん、思ってないことを書くのが嫌なんですかね?
 いや、まあ、嫌は嫌なのですけど、そこまで明確に拒絶なのかなー・・・、と。
 自分でも未確認の領域です。
 踏み込めない、に近いかも。
 ニュートラルな状態では、なんつーか、そういう深い思考に辿り着けません。たぶん。
 あー、僕と似たような人で、
 僕よりも進んだ思考の持ち主が、ぽろっとヒント出してくれないかなー。
 いや、実際にそんな奴がいたら同属嫌悪×2で即殺し合いかもしれませんけれど。 
 未だ未知ですね。幸いにも。出会ってません。自分の未来系には。
 
 しかし、どうなのでしょうね?
 僕は、”あ、こいつ僕と似てるなー”と思える奴には出会ったことがないのですが。
 ほかの人はけっこう出会っているのかな?
 うーん、自分にとっては自分の感覚がデフォルトなので、
 自分では自分を普通だと思っていますけれど。
 自分を徹底的に客観視するために、自分に似た奴に出会ってみたいなあ、とか。
 ああ、もしかして、結婚ってそういう役割も果たしてるのかな。
 ”ひとり”から”ふたり”になることで明らかに共有していない感覚にぶち当たるだろうし。
 いちゃいちゃしているだけでは視えない、本性というか、そういう部分の。

 前置きが長すぎですね。
 まあ、なんつーか、僕のデフォルトを備忘録的に記しつつ、
 あわよくば自分を客観視し、もう少し大人になろうという、そういうノリです。
 


 遅刻ってありますよね。
 許せますか、遅刻。
 許せませんか、遅刻。
 
 まあ、これは通常4通りの考え方に分岐すると思います。
 <1>他人の遅刻は許す、自分の遅刻も許す。
 <2>他人の遅刻は許す、自分の遅刻は許さない。
 <3>他人の遅刻は許さない、自分の遅刻は許す。
 <4>他人の遅刻は許さない、自分の遅刻も許さない。
 これ以外にもあるとは思いますが、話が脱線するので、とりあえずこの4つで。
 
 僕のデフォルトは<2>なのですけれど、たまに<4>もありますね。
 基本、自分がやってれば良いと思うので。
 でも、たまに調子に乗ってるときは、
 「僕がやってるんだから、おまえもやれよ!ちゃんとやろうぜ!」みたいに思うこともあります。
 人間。
 <4>は、”ちょっとねぇ・・・”なんですよね。
 これは、自分のルールを相手に押し付けているんですよね。完全に。
 ”遅刻は悪い”という社会のルールに乗っかって、
 本当は、なんか単に苛立ちを、ストレスをぶちまけているだけじゃんというか。
 卑怯な正当化というか、感情ロンダリングというか。
 ちょっと健全じゃない思考なんですよね。僕的には。
 単に「遅刻だぞ、コノヤロー!」とかならセーフですけど。
 「おれは遅れてないんだから、おまえも~」というのは、格好悪いですね。
 美学持ってないの、という感じ。
 でも、たまに美学どうでもよくなるくらいむかつくこともあるなー、みたいな。
 まあ、大抵は余裕がないときです。
 責任は自分のものであって、他人には及ばない。
 相手が遅れたなら、そいつと約束した自分を悔いるべきなんですよ。本当はね。
 
 で、僕自身の遅刻はというと、もうかなり許せません。
 めちゃくちゃ罪悪感に苛まされます。
 虐待と、虐殺、と、殺人の次くらいに重罪みたいなところがあります。遅刻。
 必ず待ち合わせの30分前には到着するようにしていますし、
 下手をすると何時間も前に到着していることさえあります。
 毎回、時間潰しに困るという。
 同じ相手と何回か待ち合わせしたりすると、相手も心得てきて、
 そいつも待ち合わせ時間より早く来たりして、
 もう待ち合わせの時間とか関係ないじゃん、みたいな。
 なんなんですかね、小心者なんでしょうか。臆病風というか、臆病嵐なんですよね。
 
 でも、待ち合わせに当然のように遅れてきて、しかも平然としている奴もいるわけですよ。
 そういう奴にぶち当たる度に思いますね。
 人間のデフォルト設定が、こいつとは違うな、と。
 いや、善し悪しではなく、ジャンル的な意味で。
 構造から別だな、と。

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 なんつーか、思考の限界として、他人の思考は全然解らない。
 気を遣いまくり、推測して、共感したつもりになるのがせいぜいである。
 というか、ぶっちゃけ自分のことすら解らない有様である。僕の場合だが。
 だから、というか、まあ、結局は一方的にならざるをえない。
 これは不器用とか、鈍感とか、そういった問題ではない。
 そもそも問題として成立しない。
 問題そのものが矛盾しているのだから。
 選ばないことが、”選ばない”を選んでいるように。
 守ることが、”それ以外を守らない”を選んでいるように。

 出来ることと、出来ないことと、
 したいことと、したくないことは、すべて断絶している。
 社会性というものが邪魔だが、まあ、たぶん古代にも似たような苛立ちはあっただろう。
 いつだって、その時代の困難というものがある。
 というか、その”困難”ですら、色んなところに影響していて、とても捉えきれない。
 これは、僕個人の印象でしかないし、
 僕にとってはしんどいだけでも、
 ほかの人間にとってはたいした問題ではなかったり、 
 むしろ、ちょっと良かったりするかもしれない。
 そして、そいつらにとっての不運が、僕にとっての幸運たりえる。
 
 色んなことが繋がっていて、
 なにかひとつを断言するためには、すべてを保障しなければならない。
 ーーーような気がする。”責任”というものの本質は。
 だから、権力という”概念”が肥大したのじゃないだろうか、とか。
 
 で、結局なにを言いたいのかというと、
 仮に”世界で一番偉い人”が決めたことでも、どうせ一方的なんだから、
 別に正当性とか、根拠とかは一切ないんだから、従う必要はないという・・・、
 ---いや、なんか違うな。そんなアナーキーな感じじゃなかった。
 仮に”世界で一番賢い人”や、”世界で一番優しい人”がーーー、いや、これ同じだし・・・。
 あー、アレです。
 ”ぜんぶ”は無理だという現実。が。むかつく。

 まあ、僕は成長するので。
 無理じゃなくせる可能性はゼロではありませんが、ほぼゼロ。
 敷居が高すぎです。
 おまえはゲーセンにある激難しいシューティングゲームかよっ!みたいな。

 一方的に片付くのは、自分の気持ちだけ。
 ほかすべては、うまいこといって誤魔化してるだけです。
 まあ、好きな人から「好き」って言われたら、誤魔化せる程度の世界ですし、
 まあ、なんとかなっているし。
 でも、なんとかなっているのは僕だけだし。
 僕が知らないだけで、
 なんとかなってない奴は、日本中に、世界中に、
 僕のまわりにもいるんだろうなー、とか思うと鬱になります。
 
 自分のことしかできないことに苛立つなんて、
 まるで思春期特有の全能感みたいじゃないですか。
 二次性徴でしょうか。ヒロイック症候群?僕、22ですけども。
 いまだに子供のように、むかついています。
 
 ”殺意”の本質は、”憎しみ”で、
 ”憎しみ”の本質は、”悲しみ”で、
 誰も、その本質を掴めないうちに事件が起こって、人が死んで、
 死んだ人が書類になって、その書類を見て、むかつくような。
 もうすべて過ぎ去って、遺族も納得しているのに、
 なんか感情移入しすぎた僕だけがむかついてるような。
 残響は意味を為さないのに。
 意味を為さない言葉を喚き続けている、ちょっとヤバげな人、みたいな・・・。

 

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 どうも。
 最近、更新頻度がスラッグ並です。
 まあ、僕の日常において特筆すべきことなど皆無であるという証明ですね。
 ないす凡庸。

 まあ、そんな感じで凡庸な僕ですが、
 老衰を除けば、生きている以上は、凡庸でない状況にぶち当たらない限り生き続けます。たぶん。
 日常が維持されるというわけです。
 
 この”維持”という概念は、なかなかハードかつヘビィで、溜息が出ます。
 維持するのにエネルギーを必要とする場合は、供給を絶てばストップしますが、
 始末に終えないのは、放置した状態で性質が切り替わり、勝手に維持されるような、
 言わば自動系の維持です。
 
 しかも、維持する対象はひとつではありませんからね。
 生存、生活、人間関係、仕事、遊びなど多岐に渡り、あらゆるスキルを要求されます。
 これらの維持は、まあ趣味みたいなものですけどね。
 勝手にやってるだけだし。やめても良いのだし。

 維持の性質が”切り替わる”というのは、
 解り易い例を挙げると、たとえば恋愛などに顕著だと言えます。
 恋愛状態に陥った、と自覚したとき。
 これが恋愛の、というか感情のピークです。個人差はありますが。
 別れたあとに残る”楽しかった記憶”というのは大抵、”始まる少し前”と、
 付き合ってすぐのイチャイチャ期ですね。
 新鮮な体験のほうが印象として強く記憶に焼き付きますから。
 で、しばらく付き合うと慣れます。色んなことに。
 あとは”維持”するだけ。
 なんつーか、別れるとか言いたくなるほど嫌いなわけじゃないし、
 まあ、好きは好きだし、みたいな感じ。惰性という奴ですね。
 
 ”維持”には惰性が伴う、みたいな。
 それはヘビィだ、と思うわけです。
 だから、世のなかには離婚とか、浮気とかあんだろーなー、と。
 いや、別に離婚や浮気を肯定するわけじゃありませんし、
 僕は、そういうのとは一線を画していますけども。

 ”終わる”のも恐怖だけど、”続く”のも恐怖だなー、とか。
 これで”終わり続ける”とかになったら、もうたまんないなー、みたいな。
 まあ、実際、あらゆるものは流転し、終わり続けているのですけれど。
 でも、また始まるから、どうにかこうにか希望みたいなものを見出せているのだろうか、とか。
 
 ーーー”終わらせる”のは、わりと気持ち良かったりするのだけど。
 破滅的だなあ。
 意地悪だし。

 
 

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 不図思ったが、最近、謝っていない。
 もちろん、軽い感じで、「あっ、ごめん」程度はあるが、
 本気でというか、真剣に頭を下げる機会がまったくない。
 
 これは、僕自身のスキルが向上し、
 本気で、真剣に頭を下げなくてはならないような状況を回避しているからというのもあるが、
 これはこれで、あまり良くない。

 謝るのを怠ると、謝るのが下手になるからだ。

 謝るスキルの手を抜くと、面倒臭いことになる。
 何事にもタイミングはあって、そいつを逃せば、大抵は面倒臭いことになるのだ。
 
 しかも、”謝罪”は自意識と密接に関わっている。
 端的に言えば、下らないプライドみたいなものが邪魔をしてくることがある。
 
 謝ろうとしない奴は器が小さい、と思うが、
 これは、もしかすると、視野が狭いせいで、謝るという発想自体がないのかもしれない、と、
 最近、思うようになった。
 ずっと、同じようなことを繰り返しているせいで、視野狭窄なのだと。
 でも、やっぱり器が小さなことに変わりはない。
 視野狭窄だからって、自己中が正当化されるわけではないからね。

 少女や、熟女には理解不能な概念かもしれないが、
 男は、どんな世代であろうと”面子”という概念に支配されており、ちょっと逃れられない。
 だから、たまには非効率的なことだってする。
 いわゆる”譲れない場面”というのは、実際にけっこうあるが、大抵は流す。
 でも、まあ、流せないときだってある。
 なんだかんだで、キレながら、ちょっと自分に酔うこともある。
 
 それで、取り返しの付かない失敗をすることもある。
 しかも、引っ込みが付かなくなることもある。
 
 心で感じたことを、上手く言葉にするのは難しい。
 思っていることとは違うことを言ってしまったり、
 ときには真逆のことを言ってしまったりすることもある。
 なんか不器用っぽくなってしまって、途方に暮れることもある。
 でもまあ、仲良くやりたければ、折れることも必要だ。
 必要なものを見失わないために、必要なものが、わりと多くて、途方に暮れるけれど。

 ---みたいなことを、考えていました。
 三時間くらい、ぶっ続けで謝る22歳は。
 
 愚かですね。
 駄目じゃん・・・。
 
 タイトルの”スキゾ”というのは、”スキゾフレニー”、つまり統合失調症のことです。
 知っていたあなたは、もしかしてエヴァ直撃世代ですか?僕はそうです。

 素直になれないっていうのは、立派な病気ですよね。
 合併症とか、性格が捻じ曲がっていく一方だし・・・。
 
 さらに進行すると”パラノイア”になりますが、要するに、これはアホという意味なので、 
 わりと、誰もがパラノイアなんじゃないかなー、とか思う今日この頃。

 

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HN:
Regnen
年齢:
37
性別:
男性
誕生日:
1986/12/14
職業:
学生
趣味:
古い映画のパンフレット収集
自己紹介:
宮崎在住の22歳。
趣味は曲学阿世。
座右の銘は酔生夢死。
最近、
日記の意義を見失い、迷走中。
眠れない夜に更新。
優しくなりたい。
ドムドムハンバーガーが大好き。
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