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いや、説明とか苦手です
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 どうも、Regnenです。
 具合悪いです。
 さっき熱を計ったら、38.6度でした。
 まあまあですね。
 とりあえず笑ってみます。

 最近、やたらとおっさん達と接する機会があって、
 まあ、それは今は一段落したのですが、
 なんつーか、振り返ってみて思うのは、
 若さっつーのは、つまるところノリとか、テンションなんじゃねーかな、
 とか思いました。
 まあ、おっさんと言っても、30~40くらいで、
 それを23歳の僕の主観で見た感想ですけれど。
 僕も、10代の連中からすれば十分おっさんですからね。
 あーあ・・・。

 今日の日記のタイトルは姉の至言です。
 うまいこと言ってくれました。
 昔、色々と辛い時期があったのですが、
 その度に辛いものをーーー、具体的には某タイ料理屋に連れて行かれたものです。
 泣きながら食べましたよ。
 辛いから、ということにして。
  
 なので、まず病院に行き、
 その足で、昼は某タイ料理屋に足を運ぼうと思います。
 優しい思い出に会いに。

 ていうか、最近行ってないのですが、
 潰れてたりしたら、めちゃくちゃ落ち込むのですけれど・・・。
 あんな、まさに知る人ぞ知る、みたいなーーー
 
 病院に行って来ました。
 鼻のなかに綿棒を突っ込まれ、
 ぐりぐりとされ、
 新型インフルエンザA型と判明。
 あ、タイ料理はおいしかったです。  
 その後は薬漬け。
 涅槃にて会いましょう。

 
 
バッドコンディション、グッドドリーム。
 バッドレリジョン、グッドピープル。
 バッドタイム、グッドナイト。
 コリジョン。



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 生きていることが不幸ですが、
 生きていることが幸福ですね。
 まあ、在りの侭という奴ですが。
 そんな一年でしたし、そんな一年にしたいです。
 適当に手を抜きつつ。
 
 あ、明けましておめでとう御座います。
 ところで、正月の由来って何ですか?
 訳もなく盛り上がっている、という状況は異常だと思うのですが・・・、
 それで「おめでたいね(笑)」ということ?
 成程。
 悪口だったわけですね。しかも辛口。
 新年早々に不快な気持ちになりました。心がヒリヒリするよ。

 さて、前回の日記で、
 鈍い奴は、最低の糞尿野郎、牛乳を拭いたあとの雑巾以下の最底辺野郎である、というような罵詈雑言を書き綴ったような気がするのですが、
 そういえば、かつて僕が中学生の頃に一瞬だけ所属していた剣道部の顧問が、
 まるで口癖のように「愚鈍たれ」と言っていたのを思い出した。
 僕には意味がわからなかったので、
 「いや、意味不明です。剣は鋭くなければ駄目でしょう」
 と言ったら、顧問は、
 「それは自分自身を一振りの剣にするということか?」
 いや、別にそこまで考えていませんでしたけれど。
 「まあ、別に剣でなくとも良いんだが、
 とにかく何かを極めようと思ったら愚鈍というのは重要なんだよ」
 「はあ」
 「よくあることだが、物事は単体で確立していない。
 色んなことが色んなふうに作用していて、
 1のことをするのに、10の技術を必要とする」
 「まあ、解ります」
 解ってきた。
 これは限界の話だ。処理能力の。
 「しかし、それは効率的ではない」
 まあ、無駄が多いとは思う。
 「目的が決まっているなら、ほかは気にしない。
 これがいちばんの近道だ」
 「それって色々と犠牲にしますよね」
 「まあ、その辺りが分かれ道だな。覚悟の」
 ふーん、と思いました。
 覚悟の分かれ道っていうか、
 それは、人間の分かれ道だと思いました。
  
 そんな昔話。
 意図的に鈍さを獲得するっていうのは、
 もしかすると逆に鋭いような気もします。
 
 おさらば。

 
 
 

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 やあ、どうも。
 更新頻度が月1とかになりつつあるゴミクズ野郎ことRegnenです。
 このように。
 卑怯者は自ら自らを罵ることで、自らの罪・・・、
 ---というよりも自らの罪悪感から逃れようとするというわけです。
 晒しますよ。
 心まで。
 何かを書くってのは、そういうことだと思っていますから。
 なんつって。
 心とか、よく解んないですけど。
 更新とか、滅多にしなかったんですけど。
 駄目じゃん・・・。

 ところで、僕、今月の14日に23歳になりました。ということになりました。
 よく解りませんけどね。それも。誰だよ、”年齢”の概念を創始した奴は。
 まあ、便利ですけど。
 ”年齢”という明確な”差”があれば、他者との”区別”が容易になりますから。
 でも、区別と差別って同じことですよ?
 
 まあ、だったら14日に更新しろよという感じなのですが、
 連日の乱痴気騒ぎのおかげでそれどころではありませんでした。
 いやあ、祝ってくれる人がいるって良いですね。
 僕は三国一の幸せ者だよ!
 ありがとうよ!
 たとえ、累計嘔吐回数が2桁に届きそうな程だとしてもね!
 ははっ、ジョークです。2桁を越えました。
 良かった、急性アルコール中毒にならなくて。
 吐いたのが逆に良かったのかもしれませんね。
 誰だよ!ズブロッカとか持ってきたのは!
 ていうか、誰だよ!おまえ誰だよ!
 みたいな。
 後輩に仕切らせるとロクなことにならないということが解りました。
 僕は、もう2度と・・・、いや、まあ、やめましょう。もう終わったことですし。

 あと、Mが誕生日プレゼントと言って、
 僕に押し付けてきたサイレントヒルはマジ怖かったです。
 初代PSのゲームなのでグラフィックが粗いのですが、
 むしろ、その粗さが怖いんですけど!
 ラジオが鳴り止まないんですけど!
 みたいな。
 怖いのは苦手なのですが、まあ、結局は楽しみました。
 そのときは、ひとりじゃなかったから。
 誰かがそばにいるだけで生まれる余裕。それを僕は”関係”だと思います。
 どうでも良いですね。
 その後。
 ひとりで少しだけプレイしてみたのですが、
 即座に電源を落としてエースコンバット3で遊びました。
 まあ、いつものところで、いつものように撃墜されましたけど。
 駄目じゃん・・・。
 しかも、序盤も序盤、ミッションでいうと3くらいですよ。
 夜は、空も海も暗すぎて、境界が曖昧すぎます。
 吸い込まれるように暗い海の淵へ誘われる様は、見ていて切なくなる程です。
 オチなし。

 まったく関係ありませんが、
 今日はエスペラント語を創始した人の150回目の誕生日だったそうです。
 グーグルのトップ絵になってました。
 皆さんはエスペラント語をご存知でしょうか?
 いや、まあ僕も、そんなに詳しいわけではないので、
 各自検索して欲しいのですが、
 確か、”複数の言語を統一する試み”として、
 ”新たな言語を創る”という、
 つまりは”供用語”を創るーーーみたいな感じだったと思います。

 言葉の壁は大きいですからね。
 言葉が通じないと、解り合えませんから。
 解り合えないと、信用できませんから。
 信用できないと、優しくなれませんから。
 優しくなれないと、迷いませんから。  
 迷わないと、間違っちゃいますから。
 間違っちゃって、でも、だれも間違ったことに気付けませんから。
 そうやって少しずつ物事を狂わせて、
 最終的にたくさんの人が悲しい気持ちになったりするものです。
 まあ、言葉が通じたとしても、解り合えるとは限りませんけどね。
 いつだって、向き合わない限り、”理解”には及びません。
 覚悟がないとね。責任を背負って。
 些細な誤解や擦れ違いで、壊れるような関係しか作れないような、
 頼りないような関係ばかりしか生み出せないような、
 そんな人間じゃない人は別ですけれど。

 まあ、でもね。
 ”供用語”というのは悪くないというか、
 むしろ全然良いと思うし、努力の方向としても間違ってないとは思います。
 ただ、そうなると”組み込まれた古い言語”たちは要らなくなるじゃないですか。
 忘れられちゃうじゃないですか。
 それは悲しいなあ、とか。
 ことばは文化ですけれど、その前に”気持ち”そのものでもありますから。
 大昔の人の、そいつは死んでも、気持ちだけは残ったということですから。
 もちろん記録としては、きちんと保護されるのでしょうけれど。
 使われなくなった”ことば”っていうのは、なんだか悲しい感じがします。

 さて。
 前置きはこれくらいにしましょうか。
 
 人を傷付けるのに必要なものは何だと思いますか?
 道具とかじゃなくて、心構え的な話です。
 僕は、”鈍さ”だと思います。
 ”気付かないこと”が、いちばん残酷な悪なんじゃないかな、と。
 ”人を傷付けたことに気付けない人”が、最も邪悪な人だ、と。
 気付かないわけですから、罪悪感もありませんしね。
 
 困っている人を見て見ぬ振りをしたり、
 権力を持った奴が、非権力者に対して横暴したり、
 いわゆる”無視”と”暴力”は、鈍くなりつつある途中の状態というところでしょうか。
 まだ関わっているというか、当事者の自覚があるというか、
 ”悪”ではあるけれど、
 同時に、望まなくても、うっかり悪者になっちゃったり、
 そうするしかなかったりしたり、
 なんつーか、理解できなくはなさそうな気がしますが、
 ”鈍い”奴とは対話すら不可能なように思います。

 迷わなければ、すべてシンプルなんですよ。
 そして、”鈍さ”というのは、そのひとつの答えなんです。
 迷って迷って迷い抜いて時間を掛けて導き出した答えも、
 鈍さゆえに自然に気楽に一瞬で出した答えも、等価値です。

 で、困ったことに。
 世の中は、どんどん”鈍化”していないか?という。
 楽な方向に流れると、思考が停滞してしまいます。
 停滞は、麻痺を招き、そうなると”鈍化”に拍車を掛けます。

 だから、ほら。
 大人は鈍い奴ばっかりでしょう?

 物事を簡単に考えるということは、
 簡単に他人を傷付けるということですからね。
 
 







 






























    

 まあ、僕もそのうちのひとりですけれどね。
 知らず知らずのうちに、
 場合によっては良かれと思って、
 色んなものを台無しにしてきたのだと思います。
 そんな、便器にへばりついた糞のような23年間だったもので。
 (世の中って、巨大な便器みたいなものですから)
 だから、まあ、優しくなりてーなー、と思うわけです。性懲りもなく。
 そうすることが、僕には必要なんですよ。
 きっと、大昔にごっそり捨ててしまった何かの代償行為です。
 自分で掘った落とし穴に自らハマる間抜け。可哀相ですね。
 ”子供”であり、”大人”で在り続ける続けるって、茨の道ですね。
 葛藤の連続で、ちっとも前進した感がありません。
 駄目じゃん・・・。

 まあ、でも”鈍さ”という機能が、
 人間の精神に掛かる負担を幾分軽くしているのも事実だと思ったりもします。
 何もかもに敏感だったら、きっと傷付くだけでしょうから。
 世の中は、目を覆いたくなるような残酷な物語ですから。
 だから、まあ、必要悪っていうんでしょうか。
 僕はまだ許容できない考え方ですが。
 悪なんて要らない、あってはならない、と考えていますが。
 心が読めれば、相手の本音が解るでしょう。
 でも、そこにはきっと自分が知りたくないことも含まれています。
 だから、心は読めないほうが良い。
 期待や、幻想の余地がなくなれば、
 希望がなくなれば、あとには絶望しか残りませんから。
 だから、心が読めない程度の鈍さは必要です。
 でも、それが行き過ぎると、邪悪だなあ、と思います。
 まあ、美学ですね。僕の。結局。こうあれ、という。
 毒か薬かで言えば、”鈍さ”は毒寄りだなあ、みたいな。
 まあ、毒も薬も似たようなものですけれど。
 薬だって、飲みすぎれば毒ですよ。
 薬は体内で反応して毒になりますが、
 普通の食べ物だって、
 食べ過ぎれば、というか詰め込みすぎれば胃とか腸とか内臓が破裂して死にます。
 あらゆるものに”死”が内包されているように。
 あらゆる鈍さに”悪”が内包されているような。とか。荒ぶる僕は思う。
 
 ”解らない”というか、”定まらない”ことの不安定さに酔いそうです。
 まるで無間地獄。まあ、それを選んだのは僕ですけれど。
 気付かないうちに、僕は既に地獄に落ちていたのかもね。
 それこそ、生まれたそのときに。
 だとすれば、まあ、そんなに悪くもない気分ですよ。
 こうして、何かを書いているわけですから。
 たとえ、それがクズみたいな文章で、
 あまりの幼稚な内容っぷりに2度と見たくなくなり、
 挙句、月に1度の更新になろうと、
 それでも、まあ、今は。
 悪くない気分です。
 
 たぶん、今だけですけれど。
 駄目じゃん・・・。
 
 ”鈍い”ですね。僕自身が・・・。
 駄目じゃん・・・。

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 なんつーか、”わかっている気になっているとき”が、
 実は、いちばん真実からは遠いんじゃねーのかな、とか。
 本当はわかることなんて何一つないんだから、
 ”わからない状態”が基本であり、
 思考することによって、むしろ正解からは遠ざかっているのではないか、という。
 
 絵を描いたり、詩を書いたり、
 とにかく何かを作ること全般に言えることなのだが、
 手応えがあるものは、
 たいていスパッと出来てしまって、ほとんど時間が掛からない。
 うだうだと時間を掛けたり、不必要に手を加えたりしたものほど微妙な出来になってしまう。
 なぜなら、思考自体が迷いだからである。
 デッサンなんか視覚的に認識できるぶんわかりやすい。
 線の多さは、そのまま迷いの多さを表している。
 完全な一本の線が描ければ、かたちも、色も問題ではなくなる。
 すべては”それ”という作品の付属物でしかなくなる。
 
 考えなければ、迷わない。
 迷う必要がなければ、考えない。
 迷わなければ、時間は掛からない。
 まあ、人間には基本的に時間がない。
 だから常に、どこか焦っていて、思考に霧が掛かったような状態なのかもしれない。
 いつか死ぬと確約されているし、
 しかも、それがいつなのかはランダムという有様なので無理もないことではある。
 ”死”の概念。怖いに決まっている。
 そのせいで、”やりたいこと”をやれる保障がないために、
 ”やりたいこと”をやるために、”やらなくてはいけないこと”を、
 ”やりたくないのにやらなくてはならない”ために、
 本来ならば、不要なはずのタスクが膨大に積み上がり、
 ほとんどの人が”手続き”と”処理”に人生の大半を棒に振っている。
 ーーーように見えるし、思える。
 
 しかし、それは迷いの本質ではないように思う。
 これらは、人間の本能と社会性が真っ向から矛盾したことの反作用で、
 ぶっちゃけ、わけがわからないうちに、いつの間にか流されて、
 わけがわからないが、
 しかし、なんとなく自分が嫌な気分だということだけは、かろうじてわかる・・・、
 ーーーという状態におけるストレスの一端でしかない。
 
 結局、多様化に付いていけていないのだと思う。
 あまりに情報が多すぎて、脳で処理できないのだ。
 とにかく、あれこれ選択肢がありすぎる、ということがわかる、という程度の性能しかないのだ。
 正解を理解するには、まだ進化が足りない。
 各々が適当勝手に答えを出して、それに自己満足するしかない。孤独である。

 コンピュータにおける人工知能のアルゴリズムに、
 ”ファジー理論”という複雑系の概念が用いられており、
 これは固体をそれぞれ明確に識別するのではなく、
 似たようなものであれば、いっそ同じものとして認識してしまい、
 そのぶん、ほかの差別化された固体を識別することで効率を良くする、みたいな内容で、
 ファジーという言葉が示すように、曖昧に認識することで、だいぶメモリを稼ぐらしい。
 そうしないと、人間が感じているような膨大なデータはとても処理できないし、
 そのファジー理論を用いても完全な人工知能は未だ完成していない。
 いや、既に完成していて、まだ発表していないだけかもしれないけれど。
 僕はエンジニアではないので、よく知らないが。
 
 なにが言いたいのかというと、
 人間も、所詮、ファジーな認識しかしていないのではないかということ。
 だから、”わからない”のが立ち位置としては正確なのじゃないかなという・・・、
 あれ、なんか冒頭から一歩も思考が進展していないような?
 駄目じゃん・・・。
 
 別に”無知の知”的なことを言いたかったわけではないです。
 結果的にそれっぽくなっちゃいましたけれど。
 ”なんかわかんねー”感覚を論理化し、把握したかっただけです。大失敗ですが。
 あとタイトルは特に意味なし。

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 食べ物の好き嫌いって、
 大人になるとーーー、というか、ある程度時間が経過すると、
 いつの間にか普通に食べれるようになっていたりします。
 これは成長につれて味覚が変化しているからだ、と姉さんは言いましたが、
 なんつーか、僕は、あえて異説を唱えたい。
 唱えたいんだ!!

 いつの間にか食べれるようになるって・・・、
 それ、もともと食べれるものだったんじゃないの?みたいな。
 調理法が適切でなかったり、食材が傷んでいたりして、
 たまたま最初の一口が激不味だっただけでは?
 ピーマンを苦いから嫌いだと言う子供にピーマンを食べさせるために、
 ピーマンケーキを作る母親のような努力はしたのかっていう話ですよ。
 緑色のケーキを見たことがあるのかと。
 あ、ピーマンじゃなくてニンジンでした。
 ニンジンケーキでした。なんだ、ピーマンって。怖いわ。なんつって。
 野菜ジョークです。野菜ジュースと掛かっているんですよ。気付きました?
 嗚呼!!
 
 要するに、”そいつのための料理”だったのかと。
 苦いものを甘く、辛いものをマイルドに。
 そこに愛はあるのかと。
 愛☆カスタマイズ!!ですよ。
 
万人向けじゃあ、合わない奴もいるだろうよ。
 最初の一口がトラウマで、もう食べない。
 案外、好き嫌いって、そんなものではないかな、とか。

 まあ、人間関係も同じですけれどね。
 第一印象が最悪だったら、
 ”あー、こいつはこんな奴か”とインプットされるでしょうし。
 タイミングというのがあって、
 余裕のないときに余裕を見せるのはしんどいですが、
 まあ、関係ない奴に関係ない事情を反映するのはヤクザの如く外道なので、
 どうでも良い奴には、どうとでも取れるような態度を。
 大切な奴には、礼節を。
 憎しみには、憎しみを。
 優しさには、優しさを。
 悪には、悪を。
 愛には、愛を。
 それぞれ適当に反射しましょう。
 ああ、でも同情は無視して良いです。
 それと、悲しみは癒してあげましょう。
 気高い人間としての尊厳を主張したいのなら、
 見極めた対応を心掛けなければね。
 僕ですか?
 僕はゴミクズにも等しい存在ですけれど。
 闇を鏡に映しても、それは闇ですよ。
 閉ざされた場所に光は差さない。

 しかし、まあ、第一印象が最悪なのもしんどいですが、
 逆に、第一印象が最高だったとしても、それはそれでしんどいです。
 僕は期待されると、重いタイプなので。
 成績とか。数字的なものは特に。自分だけで完結しないので。
 たまたまだったことを維持しようとすると無理が生じて、
 じわじわと侵食してくることは、過去に学習済みです。。
 あと、少しニュアンスが愚痴っぽくなりますが、
 頼られるのは嫌いじゃないけれど、当てにされるのは不快です。
 目下や、後輩は別ですけれど。
 同輩や、目上の連中は責任を果たしてくれなければ尊敬できないので。
 尊敬なきところに礼節なし
 造語。
 礼節なきところに尊敬なし
 でも代用可。
 
 最初から、良い感じに理解してくれるような奴がいたら、
 それは、そいつか、あるいは自分が異常なだけです。
 だから、コミュニーケーション能力が肝要なのですが、
 最近の”コミュニケーション能力”は、
 メディアのせいで意味が変質していて、
 うまく他人と接することが出来なかったり、
 そもそもコミュニケーションを拒絶している人を指していて、
 しかも、それをさも凶悪犯罪者のように扱いますが、すべて逆です。
 ”コミュニケーション能力のない、としてコミュニケーションをしない”そいつらにコミュニケーション能力がないだけです。言い訳。軟弱。向き合えない奴を僕は嫌悪する。
 もっと言えば、それはお前らが手を抜いているだけだろ、という感じ。
 脳障害などで、意思伝達できない状況・・・、
 ーーーを脳死とするかは、まだ微妙ですが、包括的にそれを含みーーー、
 死体以外と、コミュニケーションできなければ、
 それはコミュニケーションを仕掛けた側に問題があります。
 受け手の問題もあるが、それは別問題。二葉亭四迷。おさらば。

 いま、45歳くらいの思考停止した人間には認識困難かもしれないが、
 その頃の思春期と、いまの思春期は全く状況が違う。
 少子化で子供の数自体が減少しているし、
 いまは超不景気なので高卒で即就職も普通だが、
 僕の少し上の世代ーーー、
 90年代後半から00年代に掛けては学歴社会と言われており、
 大卒でなければクズ扱いされ、
 馬鹿みたいに私学が栄華を誇っていた。
 いわゆる”お受験戦争”みたいな時代で、まわりは皆ライバルというか敵。
 加えて、携帯電話、インターネット、ゲーム機など、
 個人で楽しむ娯楽が急速に発展した。
 これらの要因が複合的に作用した結果、
 彼らに与えられるコミュニケーションの機会は、
 それ以前と比べて、劇的に減少した。
 そして、コミュニケーションの機会に恵まれなかった人間が生んだ子供が、
 いまの時代の子供たちである。
 親からして、コミュニケーションに慣れていないのだから、
 子供にも妙に遠慮したりする。
 90年代よりも自立化の傾向が加速し、
 過酷な競争社会であり、1度でも競争に敗北すれば、そこは格差社会の入り口となる。
 おおらかだった時代にも、その時代なりのしんどさがあったのだろうが、
 現在のしんどさは、そのリスクの高さにある。
 リスクが高い→冒険しない→消極的の方程式が、
 集団的無意識レベルで、深層心理に組み込まれている。
 外でも、家のなかでもコミュニケーションの機会が失われた、現在の子供たち。
 彼らの現状を”コミュニケーション能力がない”の一言で片付け、
 時代背景や、個々の事情を鑑みることなく問題視する人間、
 そいつらは、まったく問題に向き合っていないし、
 そういう連中にこそ”コミュニケーション能力”が足りていないんじゃないの?とか。
 そういう時代なのかな。
 声のデカいアホアホな奴が正しいということになっていてーーー、
 いや、それはいつの時代もそうか。
 まあ、本質が何かというのは、
 事態が収束したあとに消去法で決定されるようなところがあるし、どうでも良いのか。
 なんにせよ、これからは独身が増えるでしょうね。
 結婚が効率的だったのは昔の話ですから。
 もはや、形式にすぎません。
 ”愛し合っている証明”のために多額の資金を注ぐ程の余裕が、
 現代の恋人たちにあるのかな。
 まあ、そういう”無駄”が本当はいちばん大切だと、僕は思いますけれどね。

 僕のような若造が何を言っても、説得力は皆無だと思いますが、
 まあ、ブログだし、たまにはこういうのも有りかな。
 いや、なしか・・・?
 
 今回は脱線した話がメインを食っちゃったなあ・・・。
 

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プロフィール
HN:
Regnen
年齢:
37
性別:
男性
誕生日:
1986/12/14
職業:
学生
趣味:
古い映画のパンフレット収集
自己紹介:
宮崎在住の22歳。
趣味は曲学阿世。
座右の銘は酔生夢死。
最近、
日記の意義を見失い、迷走中。
眠れない夜に更新。
優しくなりたい。
ドムドムハンバーガーが大好き。
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