食べ物の好き嫌いって、
大人になるとーーー、というか、ある程度時間が経過すると、
いつの間にか普通に食べれるようになっていたりします。
これは成長につれて味覚が変化しているからだ、と姉さんは言いましたが、
なんつーか、僕は、あえて異説を唱えたい。
唱えたいんだ!!
いつの間にか食べれるようになるって・・・、
それ、もともと食べれるものだったんじゃないの?みたいな。
調理法が適切でなかったり、食材が傷んでいたりして、
たまたま最初の一口が激不味だっただけでは?
ピーマンを苦いから嫌いだと言う子供にピーマンを食べさせるために、
ピーマンケーキを作る母親のような努力はしたのかっていう話ですよ。
緑色のケーキを見たことがあるのかと。
あ、ピーマンじゃなくてニンジンでした。
ニンジンケーキでした。なんだ、ピーマンって。怖いわ。なんつって。
野菜ジョークです。野菜ジュースと掛かっているんですよ。気付きました?
嗚呼!!
要するに、”そいつのための料理”だったのかと。
苦いものを甘く、辛いものをマイルドに。
そこに愛はあるのかと。
愛☆カスタマイズ!!ですよ。
万人向けじゃあ、合わない奴もいるだろうよ。
最初の一口がトラウマで、もう食べない。
案外、好き嫌いって、そんなものではないかな、とか。
まあ、人間関係も同じですけれどね。
第一印象が最悪だったら、
”あー、こいつはこんな奴か”とインプットされるでしょうし。
タイミングというのがあって、
余裕のないときに余裕を見せるのはしんどいですが、
まあ、関係ない奴に関係ない事情を反映するのはヤクザの如く外道なので、
どうでも良い奴には、どうとでも取れるような態度を。
大切な奴には、礼節を。
憎しみには、憎しみを。
優しさには、優しさを。
悪には、悪を。
愛には、愛を。
それぞれ適当に反射しましょう。
ああ、でも同情は無視して良いです。
それと、悲しみは癒してあげましょう。
気高い人間としての尊厳を主張したいのなら、
見極めた対応を心掛けなければね。
僕ですか?
僕はゴミクズにも等しい存在ですけれど。
闇を鏡に映しても、それは闇ですよ。
閉ざされた場所に光は差さない。
しかし、まあ、第一印象が最悪なのもしんどいですが、
逆に、第一印象が最高だったとしても、それはそれでしんどいです。
僕は期待されると、重いタイプなので。
成績とか。数字的なものは特に。自分だけで完結しないので。
たまたまだったことを維持しようとすると無理が生じて、
じわじわと侵食してくることは、過去に学習済みです。。
あと、少しニュアンスが愚痴っぽくなりますが、
頼られるのは嫌いじゃないけれど、当てにされるのは不快です。
目下や、後輩は別ですけれど。
同輩や、目上の連中は責任を果たしてくれなければ尊敬できないので。
尊敬なきところに礼節なし。
造語。
礼節なきところに尊敬なし、
でも代用可。
最初から、良い感じに理解してくれるような奴がいたら、
それは、そいつか、あるいは自分が異常なだけです。
だから、コミュニーケーション能力が肝要なのですが、
最近の”コミュニケーション能力”は、
メディアのせいで意味が変質していて、
うまく他人と接することが出来なかったり、
そもそもコミュニケーションを拒絶している人を指していて、
しかも、それをさも凶悪犯罪者のように扱いますが、すべて逆です。
”コミュニケーション能力のない、としてコミュニケーションをしない”そいつらにコミュニケーション能力がないだけです。言い訳。軟弱。向き合えない奴を僕は嫌悪する。
もっと言えば、それはお前らが手を抜いているだけだろ、という感じ。
脳障害などで、意思伝達できない状況・・・、
ーーーを脳死とするかは、まだ微妙ですが、包括的にそれを含みーーー、
死体以外と、コミュニケーションできなければ、
それはコミュニケーションを仕掛けた側に問題があります。
受け手の問題もあるが、それは別問題。二葉亭四迷。おさらば。
いま、45歳くらいの思考停止した人間には認識困難かもしれないが、
その頃の思春期と、いまの思春期は全く状況が違う。
少子化で子供の数自体が減少しているし、
いまは超不景気なので高卒で即就職も普通だが、
僕の少し上の世代ーーー、
90年代後半から00年代に掛けては学歴社会と言われており、
大卒でなければクズ扱いされ、
馬鹿みたいに私学が栄華を誇っていた。
いわゆる”お受験戦争”みたいな時代で、まわりは皆ライバルというか敵。
加えて、携帯電話、インターネット、ゲーム機など、
個人で楽しむ娯楽が急速に発展した。
これらの要因が複合的に作用した結果、
彼らに与えられるコミュニケーションの機会は、
それ以前と比べて、劇的に減少した。
そして、コミュニケーションの機会に恵まれなかった人間が生んだ子供が、
いまの時代の子供たちである。
親からして、コミュニケーションに慣れていないのだから、
子供にも妙に遠慮したりする。
90年代よりも自立化の傾向が加速し、
過酷な競争社会であり、1度でも競争に敗北すれば、そこは格差社会の入り口となる。
おおらかだった時代にも、その時代なりのしんどさがあったのだろうが、
現在のしんどさは、そのリスクの高さにある。
リスクが高い→冒険しない→消極的の方程式が、
集団的無意識レベルで、深層心理に組み込まれている。
外でも、家のなかでもコミュニケーションの機会が失われた、現在の子供たち。
彼らの現状を”コミュニケーション能力がない”の一言で片付け、
時代背景や、個々の事情を鑑みることなく問題視する人間、
そいつらは、まったく問題に向き合っていないし、
そういう連中にこそ”コミュニケーション能力”が足りていないんじゃないの?とか。
そういう時代なのかな。
声のデカいアホアホな奴が正しいということになっていてーーー、
いや、それはいつの時代もそうか。
まあ、本質が何かというのは、
事態が収束したあとに消去法で決定されるようなところがあるし、どうでも良いのか。
なんにせよ、これからは独身が増えるでしょうね。
結婚が効率的だったのは昔の話ですから。
もはや、形式にすぎません。
”愛し合っている証明”のために多額の資金を注ぐ程の余裕が、
現代の恋人たちにあるのかな。
まあ、そういう”無駄”が本当はいちばん大切だと、僕は思いますけれどね。
僕のような若造が何を言っても、説得力は皆無だと思いますが、
まあ、ブログだし、たまにはこういうのも有りかな。
いや、なしか・・・?
今回は脱線した話がメインを食っちゃったなあ・・・。
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