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いや、説明とか苦手です
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 緊張の下で己自身を反復するように。

 「わたしがわたしであるためにわたしはわたしでなくてはならないわたしを定義するわたしがわたしであるためにわたしはわたしでいなくてはならないわたしがわたしであるためにわたしはわたしでなくてはならないわたしを定義するわたしがわたしであるためにわたしはわたしでいなくてはならないわたしがわたしであるためにわたしはわたしでなくてはならないわたしを定義するわたしがわたしであるためにわたしはわたしでいなくてはならないわたしがわたしであるためにわたしはわたしでなくてはならないわたしを定義するわたしがわたしであるためにわたしはわたしでいなくてはならないわたしがわたしであるためにわたしはわたしでなくてはならないわたしを定義するわたしがわたしであるためにわたしはわたしでいなくてはならないわたしがわたしであるためにわたしはわたしでなくてはならないわたしを定義するわたしがわたしであるためにわたしはわたしでいなくてはならないわたしがわたしであるためにわたしはわたしでなくてはならないわたしを定義するわたしがわたしであるためにわたしはわたしでいなくてはならないわたしがわたしであるためにわたしはわたしでなくてはならないわたしを定義するわたしがわたしであるためにわたしはわたしでいなくてはならないわたしがーーー」
 
 みたいなことを延々と考え続けて、どうにかなりそうだった中学生の頃の僕。
 そのときの必死さは、いまの僕にはない。
 記憶はあるが、現実感はない。
 厳密に言えば記憶すらもない。
 そうだったような気がする、という程度の印象しか残っていない。
 
 なんつーか、これは色んなことにあてはまるのだが、
 人間はーーー、というか動物は”繰り返す”。
 生活ひとつ取っても、非常に多くの行動を繰り返し、
 繰り返しを、繰り返し繰り返し、それが自然な状態になっている。
  
 状況と感性によって、そのときの印象は異なるが、
 同じようなことを延々と繰り返しているような気がする。
 歴史とかね。
 
 始まりは定かではないのに、終わりだけは約束されていて、
 しかし、終わりは唐突でーーー。

 まあ、人間には終わりがあるということです。
 テロメアでしたっけ?老化して、どうせ絶命します。
 いや、僕には絶命の経験がないのでよくわかりませんが、そういうことになっています。
 壮大などっきりかなー、僕は騙されないぞー?と思わなくもないのですが、
 死という現象の瞬間にライブで立ち会ったことはなくとも、
 画像や映像などで目にする死にはリアリティがありーーー
 いや、リアリティはありません。そこまで身近なものではない。
 しかし、軽視できない説得力が・・・、虚無という恐怖が明確に横たわっていて。
 死を現象としても、画像としても、映像としても知らなかったときには、
 概念として”やがてそうなる”程度の認識しかなく、
 好き勝手に生きて、いやになったら自殺しちゃえば良いんだし、とか軽く考えていましたが、
 虚無の、何も見出せないことを知ってしまった今となっては、まあ、わりと怖いです。
 忘れては思い出して、意識しては戦慄します。
 緊張感のある人生。たまに、ありがたみを忘れますけど。

 人間は終わりますが、社会は終わりませんね。
 社会というシステムが永遠なのかな?
 面白い構造だなあ、と思います。
 有限である人間が、無限であるシステムをつくるというのは。皮肉っぽくて。
 
 そういう意味では、社会は人間の意識そのものかもしれない、とか思わなくもありません。
 人間の意識は脳にあると言われていますが、突き詰めれば脳も細胞ですよね。
 でも、細胞自体には意識はありません。
 細胞が集合して、組織化するうちに、どこかで意識が発生しているわけです。
 社会も似ていて、社会そのものには意識はありませんが、
 社会を構成する要素に意識があって、それがルールというかたちで顕れている気がします。
 
 まあ、人間もシステムですしね。
 意識とか、思考なんてものは細胞や遺伝子の乗り物なわけですから。
 スタンドアローンのほうが効率が良いから、そうなっているだけで。
 そう考えると、肥大化した自意識なんてものは明らかに無用の長物なのですが、
 それこそが人間らしさであるような気もして途方に暮れます。

 漠然と繰り返してる場合じゃないんじゃねーのか、とか思いますが、
 漫然とロンドっている日々はありきたりで、でも、それはそれで悪くなかったり。
 お笑いでいうところの天丼とか好きだし。
 斬新さを、そもそも認識できない可能性もあるわけで、色々と眼が離せません。ほんと。
 学べるうちは学ばナイト!
 
 ---記事のタイトル、「学ばナイト!」にしようと思っていたのですが、
 韻を踏みたかったので現行のタイトルに変更しました。
 こういうことは、多々あります・・・。
 良い子の皆さんは真似をせずに、素直に直感を重視しましょうね。約束だよ!
 じゃないとクオリティが下がるよ(泣笑)!

 意味あんのかなー、人生。とか。
 べつに、僕が死んでも世のなかは何事もなく繰り返していくのだろうけど、
 それ自体はかまわないのだけど、
 だったら、そもそも人間と社会には絶望的なまでに接点がないんじゃないの、みたいな。
 果てしない距離を感じる今日この頃。
 間違いたくねーなあ、と思うことが間違いなら、どうすりゃ良いんだよ、みたいな。

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 タイトルは韻を踏みたかっただけです。
 以前は真実というものを探していましたが、
 最近は、どうにも真実は一過性であるような気がしてきたので、
 じゃあ、真実を重ねた先に真理というか、誰もが納得する解答があるというのも、
 まあ、幻想じゃん。みたいな。あーあ・・・。認識がフラットです。こころなしか現実もフラット。
 個人の領域から脱却できません。ブレイクスルーが足りない模様。自由は孤独なのかな。
 コギトエルゴスムスですね。思い込みが世界を構成していますから。
 あらゆる認識は自分に跳ね返ってきます。眼に映るものは、すべて突き刺さる刃ですね。
 
 さて、今日もまた、僕にとっての真実が更新されました。

 買わなくても後悔するけれど、
 買っても後悔する。

 後ろ向きな発見ですね。しかも絶大な説得力。
 この思考は、ほかの現象にも応用できそうですが、
 なにもかも後ろ向きにしてしまうという驚きの効力です。
 後ろ向きの後ろ向きは、前向きじゃあないですしね。
 ひたむきと下向きくらい違います。
 後ろの後ろ向きdeath死ね。後ろの正面は自分です。鏡には、映りませんけれど。怖っ!
 真実は現実ですが、現実は真実とは限らないし、
 認識の順序がシャッフルされているような気が。  

 死ぬのはアレだけども、
 生きるのもアレだったり。
 アレというのは鉄アレイの略です。
 
 その心はーーー、どちらもしんどい。
 
 なんつって。

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 わりと体力には自信がないので、忙しなく動くのがしんどいのだが、
 動かないのもしんどい。
 
 以前、頼まれて美術モデルをしていたことがあるのだが、
 長時間に渡って同じ体勢を維持するのはしんどかった。
 ポーズのコンテがあって、休憩を挟んで、
 コンテを見てポーズを再現する、という建前なのだが、
 実際には、殆ど休憩を挟まない。
 ひどいときには4時間くらいぶっ通しで立たされ続ける。
 「いま、集中してるからもうちょっと!」みたいな。
 
 動かないでいるといっても、寝ているわけではないので、筋肉は常に緊張している。
 同じ部分に重心を掛け続けるので、
 立ちポーズの時には脚は激痛に襲われるし、座りポーズの時には尻が内出血する(らしい)。
 寝ポーズのときには眠くなってしまう。そして怒られる。
 あと、飽きる。同じ体勢でいるという状況に。これは、もうどうしようもない。
 彫刻や、オブジェなら製作過程を眼で追えるので、何となく退屈はしのげるのだが(限界はある)、
 静物画の場合はキャンバスが裏面なので、延々と一点を見詰め続けなくてはならない。
 飽きてしまえば、もうストレス倍増なので必死に素数を数えたり、
 リアルタイムで円周率を求め続けたりする。
 
 過酷だったなあ、あの頃・・・・・・。
 そんな思い出し夢を見ました。
 過去に未練があるのだろうか。まあ、完全になくはないのだけど。確かに。
 なんか、ただ記憶が再生されるだけの夢って、少し切ない。
 そんなものを見せられても、どうしようもないし。
 
 先生、元気でやってるかなあ。
 豪快なわりに病弱だったからなあ、あの人。
 酔っ払って、全裸で寝て、凍死とかしてなければ良いのだけど。
 

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 相対的な距離が一定でない道や、
 相対的な時間が一定でない道や、
 相対的な速度が一定でない道は、
 言うまでもなく狂っているのですが、
 狂っているのが、自分なのか、自分以外なのかは、自分にだけは解りません。
 それで、他人と関わることが重要になってくるのですが、
 その手段のひとつである言葉っつーのは非常に厄介で、
 ぜんぜん伝わらないくせに、余分な意味が多分に混じります。
 まあ、解釈を他人に委ねた段階で、没交渉なのですね。本質的には。
 本当に言いたいことの上っ面しか残りません。
 世のなかには、はっきりしないくせに確たるスタンダードがあり、
 そいつから逸脱すると客観的には狂っているということにされ、
 そうなると社会生活が困難になるので、
 逸脱しないように、
 言葉を制限し、
 行動を制限し、
 思考を制限し、
 仮面を被って、上っ面の会話でもっともらしく頷いてみたりしているのですが、
 まあ、滑稽ですよね。
 でも、人間ですよね。
 どうしようもない感じが、特に。

 関係が個人で完結しないので、意識も個人のものではなくなりました。
 ひとは、ひとりではなくなりました。
 でも、孤独は増した気がします。
 ひとりなら、自分だけを理解すれば良かった。
 ひとりじゃないから、自分以外をも理解しなくてはならなくなった。
 でも、それは無理で。少なくとも現在は。思考を共有できないので。
 (まあ、ネットワークの概念に可能性を感じますが)
 ひとりよりも、理解し合えないふたりのほうが、より孤独です。
 ふたりよりも、たくさんのほうが、より孤独です。意識が拡散するので。たくさんだけに。
 仮に、意識も思考も共有できたとして、
 (まあ、某人類補完計画ですけれど、それは)
 それは結局は、ひとりなので、孤独からは逃れられる気がしません。
 
 話が逸れました。
 
 まあ、狂った道がたくさんあるわけですよ。人生には。人生を道に喩えると。
 狂った、といっても主観的に、僕にはそう映ったということですが、
 これに関しては説明できるはずもないので、各々、自分にとっての狂った道を想像してください。
 想像しましたか?
 ありがとうございます。
 では、次に、狂っていない道を想像してください。
 想像できましたか?
 即座に出来た人は頭の回転が良いですね。出来なかった人は普通です。
 狂っている状態を想像するように誘導していたので、
 そうでない状態は盲点状態ですから。ちょっとしたミスディレクションです。
 え?いや、べつにふざけてませんよ。マジですよ。この場合、マジでふざけていれば矛盾しませんが。
 じゃあ、もう一度、狂っていない道を想像してください。
 あなたにとっての、まともな道を。
 普通な道を。
 想像しましたか?
 では、訊きます。
 その道は、どこまで続くんですか?あなたの道は、どこまで続くんですか?
 
 まあ、ひとつ言えるのは、
 道が唐突に途切れるのも、延々と続くのも、それはそれで狂っているということです。
 さらに言えば、
 まともでも、まとも過ぎれば、やはりそれはそれで狂っています。
 まあ、これは何かで読んだのですけど。上も下も。
 狂っている、と証明することは何かと比較すれば良いので簡単ですが、
 逆に、狂っていないことを証明するのは、比較対象が存在しないので困難です。
 ワンオブゼムの証明は容易であるが、オンリーワンの証明は困難である。
 これは、俗に悪魔の証明といわれる思考トリックです。
 <ない>ものは証明できない。曖昧なものも。
   
 まあ、常識とか普通は、世のなかという密室のなかに住む悪魔だなー、と。
 同じく、孤独や感情も、思考という密室のなかに住む悪魔で、
 ぶっちゃけ、思考も大脳皮質という密室のなかに住む悪魔。
 
 ちなみに、悪魔とか神とか、
 そういう宗教系の云々は人間が責任逃れをする際の常套手段ですね。
 ”よくわかんねーもんを、よくわかんねーもんに押し付けて、わかった気になっているだけ”です。
 すなわち、脳に悪魔がいるということは、自分自身が悪魔であることに他ならず、
 そうは言っても、自分自身が、自分自身のなかに住む悪魔だったりして支離滅裂です。
 まあ、悪魔という存在自体、人間の作ったものですし、
 悪魔の正体は、”最初の誰か”が投影された人間か、自分です。神もね。
 信仰の目的は現実逃避なんですから、
 対象は偶像であれば何でも構わないわけです。
 実体がなければ。
 だから、なんか萌え系とか、まんがキャラとかのでかい宗派があっても、
 本質は変わらないし、信仰は揺るがないはずなんですよ。
 でも、なんつーか体面に拘っているでしょう。キリストとかブッダとかアフラマズダーとか。
 そのへんがなあ、俗っぽいっつーか、むかつく部分です。
 そういう半端な奴が借り物の言葉で話しかけてきたら普通に嫌悪します。
 その点、日本の九十九神信仰は良いですね。割り箸とかに拝んだりして。
 そういう気合入ってる奴が自分の言葉で教えを説いてきたら、普通に訊きます。
 自分と異なる思考は興味深いですからね。まあ、でも宗教はやばいですけど。
 風俗とかホストと同じですから、弱い部分に付け込むーーー
 なんつーのかなあ、屑っぽいところが。
 まあ、屑にも色々いますけどね。僕とか。
 良い屑もいれば、光ってる屑もいます。優しい屑もいます。
 でも、屑は屑ですから。
 自覚しないのは罪ですね。まあ、屑は生きるのが罰ですから、チャラですけれど。あーあ・・・。








 あれー、おかしいなー。
 なんだか、よくわからないことを書いていますね。我ながら。
 逸れた話のほうが拡がっちゃっていますね。毎度のことながら。 
 当初は”純粋性”について書くつもりだったのですが、まあ、かまわないか。
 結論だけ書いてしまいます。
 
 純粋は、純度が高さに比例して危険さを増します。
 コントロールできないものってのは、やばい代物だと相場が決まっています。
 取り扱いには、ご用心を。

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 あえて、僕の人間性が透けそうなことを書きますが、
 認めることと、諦めることは、感覚が酷く似ているように思います。
 なんか、ふと思いました。唐突に。
 ちょっと面白い思考だと思ったので、あえて書き記しておきます。
 なんつーか、老いだろうか。みたいな。

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プロフィール
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年齢:
38
性別:
男性
誕生日:
1986/12/14
職業:
学生
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古い映画のパンフレット収集
自己紹介:
宮崎在住の22歳。
趣味は曲学阿世。
座右の銘は酔生夢死。
最近、
日記の意義を見失い、迷走中。
眠れない夜に更新。
優しくなりたい。
ドムドムハンバーガーが大好き。
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