いや、説明とか苦手です
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なので、天才について書きたいと思います。 天才っていうのは、純度だと思います。 というか、逆説的に、純度が高いと”天才”と呼ばれしかないのだと思います。 もちろん、まわりの連中が勝手に見てる虚像にすぎませんけど。 本人にとっては、それが自然だとしても。 存在が違和感なので、どうしようありません。合掌。 なにかひとつに集中すると、 そればっかりやって、 それしかできなくなって。 ほかになにもできなくなって、 でも、”それ”だけは誰よりもわかる、みたいな。 結果的に何かを失うような方法でしか生きれない不器用な奴。 それが天才なんじゃないですか。 生きている実感なんかない。 ”それ”しかないんだから。 たとえるなら、やけくそになって無差別に他人を殺しまくってるような状態でしょう。 天才が殺すのは自分自身ですが。 何にも価値を見出せず、 何にも美しさを感じず、 なにもかも傷付けることしかできない。 努力すれば必ず望みが叶う、なんてことはありませんが、 だからといって、誰かの努力を才能のせいにして評価しないのは格好悪いですね。 才能が欲しいとか言ってるような、努力を放棄している人は、 ”才能”に喰われないように、ご用心。 言うまでもなく、才能なんて幻想で、そんなもの本当はありません。 運か実力の導いた結果か、 運と実力の招いた結果です。 ただ、あるとき気付くかもしれません。 ”それ”しかできないことに。 そうなったら手遅れなので、 何もかも失いたくはない、他人を好きでいたい人は、極力なにもしないほうが良いと思います。 知ってしまうと、知らなかった頃には戻れませんから。 ああ、僕はぜんぜん何の才能も持たないので苦悩とは縁遠いですが。 まわりの連中とのギャップなんて感じたことありませんし。 群集のど真ん中。ミスター平均値。人間ボーダライン。それが僕ですから。 嘘ですけど。 ボーダーなんて、とっくにぶっちぎりです。 自分の立ち位置を微妙に理解しつつある状態です。 足を踏み出せば、もう戻れない。 そういう場所にいます。気分的に。 でもなー、もう描いちゃったんだよなー。 まあ、まだそれほど失っていない・・・、わけでもないか。 あーあ・・・。 きのうの僕におさらば。 きょうからは新しい僕。 いわばニュー僕。 なぜだろう。 新しいはずなのに、この響きの古臭さは・・・。 ニューって・・・。 ”レッツゴー”くらい古い語感だなあ・・・。 まあ、それは良いです。僕のセンスのなさは、さておき。 思うのですが、他人には、さらに別の顔がありますよね。 きょうはその話です。たぶん。 しかし、書いてるうちに脱線する可能性もなきにしもあらず。 そうならないように努力、はしません。 ”書いたこと”は、”そのときに書きたかったこと”なので、 まあ、過去を消すのは色々と思うところがあるので。 ブログを終わらせるか、別のキャリアに引っ越すまでは残したいと思います。 反転を覚えたおかげで削除も減ったし。 言うまでもなく他人というのは埒外で、まったく理解できない存在ですが、 (この場合の他人は”自分以外”と定義します) しかし、極稀に友情が芽生えたような気がしたり、 相思相愛しているように錯覚されたりしますが、 まあ、それでも完全にお互いを理解するには至らないと思います。 基本的にも、例外的にも一方的な感情のやり取り。 「違う!愛とは素晴らしいものだ!」という人はぜひ僕を説得してください。 僕は他人を嫌いなんじゃなくて、好きになれないだけです。 だって、油断できないしね。緊張状態はしんどいので切り捨てただけです。 まだわずかに他人との関係を保っていますが、それは自分自身の延長という感じ。 文字通りに、他人じゃない。ただならぬ関係というわけです。あとは仕事。 ほかは、まあ、たまに色々ありますが、ほとんど静かな人間関係です。 ただ、その例外的な”わかった気になれる”ような、 ”相手からも自分は信頼されている”と思えるような、 そういう奴にも、 ぜんぜんわからなくなるような、 積み上げてきたものがすべて幻だったと思ってしまうような瞬間があって、 それが、 ”自分以外の他人と接している親しい人間(友人でも恋人でも良いですけど)”です。 これは未知だし、干渉しようがないし、そして遠慮してしまうので”他人”と言うほかありません。 自分以外の人間と接する友人は、まったく別のキャラです。 友人の友人の前では、友人は、友人の友人の友人になっているわけです。 そんなの、別人です。 そんなの、他人です。 距離が離れていくのを感じます。 さみしいので、いやです。 格好悪いので、口には出しませんが、いやです。 嫉妬みたいにメラメラした感情じゃなくて、 誰もいない部屋みたいな、がらんとした感情です。 やけに音が大きく反響するような。 でもまあ、当然です。 個人を認めるということは、他人と比較するということですから。 それは、区別ですから。 それは、差別ですから。 平等なんてありませんから。 公平なんてありませんから。 均等なんてありませんから。 僕もやっていますから。 ですから。 わかる。 でも、いやだ。 なんか、最近、わがまま度が増していくのを感じるなあ。自意識が不安定だからかなあ。 ”いやだ”だってさ。子供かよ。馬鹿かよ。という感じ。ハローグッバイ並に意識がばらばらだもの。 考えなくちゃいけませんね。 いちばん良い方法を。 そこが向き合うべきポイント。 わかってはいるんですけれど。 まあ、楽じゃないっていうか。 なんつーか、さすがに気付いちゃったんですよね。 好きとか嫌いなんてのは、ずいぶん勝手な言い分だってことに。 だって陳腐ですよ。不完全だもの。 自分の気持ちには自分で決着を付けるほかにない。 まったく日和っていました。ぴよぴよです。初代ストⅡの。ボタンを連打しないとね。 やられてしまうから。対戦相手はアンノウンですが、乱入は絶えないので。 連コインしようにも赤貧。あとはないってわけです。遊ぶ余裕もありません。ゲームなのにね。 負けないことを目的にすると、そうなる。 ただ、負けてもいいと思えるほど世のなかは優しくない。 優しくないものにたいして、僕は優しくなれない。ならない。 憎悪とか嫌悪が瞬間的に発生。燃えるように。 すぐに鎮火。残るのは記憶。無気力。諦め。絶望。気持ちの重さに比例した速度で沈んでゆく。 時間が経って過去の僕と共に引き上げられる最新の僕はまるで他人のように冷静かつ他人のようによくわからない。というか他人だ。 他人に踏み込むのはしんどい。でも必要。しかししんどい。さりとて必要。とはいえしんどい。 自転車で木星までいくようなものだ。荷台に恋人を乗せて。元ネタが解る人は挙手するように。 そんな時代が、まあ、いつかはくるかもしれないが、いまはまだ無理だろう。 そんなわけで、とりあえずの結論が出ました。 考える限り、孤独は必然です。 もっと言うと、孤独について考えること自体が孤独。 孤独は孤独を呼ぶというわけです。 ロンリーイズオンリー。 色々と全力で放り投げ出したくなってきました。 薄氷の上を歩くような。 ていうか、氷の下にはなにがあるのだ。 頑なに怖れてきたが。 まあ、実験してみるとします。 披検体は僕。 期間は解るまで。あるいは納得できるまで。もしくは諦めるまで。 さもなくば死ぬまで。 そうなれば、それまで。 おさらば。 非常に儚く、早く、いまにも消えそうなものがたくさんある。 あるなあ。 困る。 いやだなあ。 困るのは、いやだなあ。 消えそうなものが、やがて消えることがいやなのではなく、 消えそうなものが、やがて消え、それによって自分が困るのがいやな、 そんな自分がいやだなあ。 優しくなくて。 好きになれなくて。 楽しめなくて。 すべてを台無しにするのはいやだなあ。 間違えるのは。 それに気付かないのは。 悲しいのは。 結局、 自分のために生きているような奴は、 自分のためにしか生きられない奴は、 限りなく幸福から遠ざかる宿命にある、という気がします。 自己満足には限りがないし、自己実現は果てしないし。 手っ取り早く幸福になるためには、他人のために生きることですね。 他人と自分を同一化して、そいつを歓ばせれば、それが自分の幸福に直結しますから。 感情移入の極地に至れば、まあ、自意識は希薄になりますが、 案外、それが最も幸福への近道と言えるのかもしれません。 消去法ですけれどね。 不幸でなければ幸福に近い状態になるだろう、みたいな。 だから、人は愛し合うのでしょうか。 自然に、堂々と相互に依存するのを正当化するために、 まあ、セックスは都合が良いですしね。 夢中になって溺れれば、自意識がばらばらになって、細かいことは忘れられるし。 性別が別で、共通意識としての発情があって、 社会常識としての結婚という制度があって、 禁忌には抜け道が用意されていて。 現実逃避は、情けなく恥ずかしいことであるという意識である一方、 必要悪として見逃されているという構造があります。 麻薬みたいなものですね。 座薬みたいなものかも。 いや、座薬は違いますね。あれは良薬ですから。 泣きたくなりますけれど。痛みと情けなさで。 女性の権利が拡大されたことも大きいでしょうね。 というか、最初から拡大する必要はなくて、 もともと誰もが持っている権利に今更のように気付いただけとも言えますが。 というか、何年も前から同じ人が同じことを言っているだけのような気もしますが。 なんつーか、その原動力は単にコンプレックスなのでしょうけど、 目的を忘れて、手段としての攻撃に没頭するのはどうかと思いますね。 誰とは言いませんが。 ちゃんとやれよ、とは思います。 歴史を紐解けば解りそうなものですが、 女性の主張で槍玉に挙がりがちな”男尊女卑”というのは、 戦時中に形成された意識です。たぶん。 男が武器を携えて戦いに行き、女は男の留守中に家を守る。みたいな。 その意識が戦後の復興後にも維持され、 結局、現在に至るまでずるずる引きずられているだけです。 理由は都合が良かったからとか、 それでなんとかなっていたからとか、そんな感じでしょう。 そういう背景があったので、いままで結婚という制度が確立されてきました。 しかし、ここにきて結婚という制度の意義が揺らいでいるみたいです。 まあ、僕は男なので憶測ですが、 結婚って、女性にとっては色んな点で不利な部分が多いと思います。 端的に言ってリスキー多売という感じ。あ、いまのはギャグです。 わかりづらいと思ったので自己申告しましたが。 女性の場合、それまでの生活を続けていれば自由だったのに、 子供の負担があったり、男性中心のなかで戸惑うこともあるでしょう。 好き好き大好き超愛してるでも、ストレスはゼロにはならないと思います。 そういうのが嫌な人が家庭を放棄して、蜂起したのが”女性の権利”の主張というわけですね。 現実において愛というのは、言葉以上の力を持ちませんから。 でも、現実逃避している人は別ですけれどね。 ただ楽になりたいだけの人は、 自分のことも、相手のことも、現実さえも気にしないので、勝手に幸福になれます。 僕は、そういう一方的な好意と行為は害悪だとは思いますが、 そういうのが好きな人もいるのも現実です。 需要と供給の、眼に見えない歯車が噛み合っているのでしょう。 気持ちが冷めない限りは幸福だと思います。 それもリスキーだとは思いますが、まあ、人間関係は基本的にリスキーですし、 少子化と高齢化で拍車が掛かっているので、たいしたことではないのかもしれません。 まあ、共通意識としては、 結婚はしんどいですが、そういうものだと思っているし、 世のなかのルールだし、自分の親も結婚したわけだし、 その過程と結果で自分が誕生したわけだしーーー、ということと、 単純に恋愛の延長上に捉えている、というのがあるような気がします。 あと、結婚すれば安定すると安易に思い込んでいるような気もします。 テレビとかで意識誘導しているし。 せいぜい子供に自分を投影したり、依存したり、私物化したりして悦に入るくらいでしょう。 不景気なので、それもリスキーですが。 一方で、男はというと、 結婚して、自分が働いて、妻子を養うというのが、 言わば常識的な”大人像”なのですが、 しかし、前述のように女性の意識が変わってくると、 互いにしんどいだけで、合理的ではありませんね。 愛と不都合に一生を費やすという構造の完成です。 なんつーか、時代が変わって、 結婚の意味合いも変わっているのに、いまいち気にしていませんよね。 結婚というのは、まあ恋愛もファクターとしてありますが、 美化されているだけで、それ自体の本質はシステムです。パートナーシップという。 個人化が進み、結婚の意味が見失われつつあります。 あんまり意味ないというか、しんどいだけのような気もします。 少なくとも、合理的ではありません。 婚期を躊躇うほど、出産適齢期からは遠ざかりますし。 かといって17歳では経済能力がありませんし。 あと17歳は法的には児童だし。 安易ですが、 いっそ女性は17歳、男子は18歳になったら確実に結婚させて、 2年以内に子供を設けないとペナルティ、みたいな法律を制定しなければ、 あと100年くらいで人類は滅びるかもしれませんね。 そうでなくとも、 このまま少子化進行すると日本は国として立ち行かなくなりそうですね。 世界には日本のポストを狙っている国はたくさんありそうですし。 もっと色んな国で紛争が深刻化したら、勢いで日本も潰しちゃえとなるでしょう。 ならないか。 ゲームじゃないんだから。 なるかもしれませんけれど。 ゲームじゃないのに。 優しさってなんだ。 いまにも消えそうなものだ。 |
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Regnen
年齢:
38
性別:
男性
誕生日:
1986/12/14
職業:
学生
趣味:
古い映画のパンフレット収集
自己紹介:
宮崎在住の22歳。
趣味は曲学阿世。 座右の銘は酔生夢死。 最近、 日記の意義を見失い、迷走中。 眠れない夜に更新。 優しくなりたい。 ドムドムハンバーガーが大好き。
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