いや、説明とか苦手です
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 浪費家の友人かく語りき。 「おれがモノを欲しいんじゃない。 モノがおれを欲しがっているんだ」 応えて、僕。 「それは妄想だと思うな」 友人は爽やかな笑みを浮かべ。 「妄想でも良い」 僕は呆れ半分。 「なら、良い」 もう半分は、肯定。 ちなみに、浪費家の友人が買ったものは何かと言うと、 ドリームキャスト3台。 状態は並。 小計7500円(税別)。 「3機も要るの」 いや、要らない。反語。反語部分は言わないが。 友人が自分の金で何を買おうが自由だしな。 イスラエルから水爆を4つ購入したとしても僕は友人の意思を尊重するが、 しかし、個人的な興味の問題を解決するための質問くらいは構わないだろう。 構うか?そんな奴は振り出しに戻っていれば良い。むろん、いまの言葉に深い意味などない。 「3機は要るね。 いや、家に既に1機あるのを含めれば、4機か」 さらに1機ぶんのポテンシャルを秘めていたか。 「用途の見当が付かないのだけど」 積み上げて塔でも作る気か。 さぞかし前衛的なオブジェと化すだろう。 それはそれで少し見てみたい気もする。 「いやいや、飾って眺めるんだよ。 そうすると癒されるんだ」 今更あえて言うまでもないことだが、世界には多様な価値観が存在する。 いや、今の言葉に深い意味などない。ないが。 「そうか」 正直、さっぱり友人の価値観には共感できないが、 しかし、ここは適当に頷いてやるのが大人というものだろう。 僕は殊更に大儀そうに首を縦に動かした。 「おお、わかるか」 僕は頷きながら言った。 「わからん」 「わかれ」 強制してきた。 「わかめ」 ボケてみた。 「豆腐」 ボケにボケを重ねてきた! 「ねぎ」 さらにボケを重ねてみた。 「味噌汁の具か!」 高度すぎる突っ込みが返ってきた。 「僕は豚汁のほうが好きだけれど」 「どうでも良いよ!」 「ところで、地方によって”豚汁”を、 ”とんじる”と読むかーーー」 「ーーー”ぶたじる”と呼ぶか」 PR なんつーか、めちゃくちゃ乱暴な言い方になりますが、 ”がんばり”というのは、本質的に無駄なものだと思います。 なんでもかまわないですが、”なにか”を、自分なりに、どれほどがんばったところで、 自分と関係のある、あるいは自分とは関係のないところで、 もっと効率の良いやり方や、合理的なやり方があったりして、 じゃあ、自分が無理をしてがんばらなくても良いじゃん、となってしまいます。 「そんなに必死になっちゃって、馬鹿じゃん」みたいな虚無感。 当然です。自分が世界一の頭脳を持っている、と自認しない限り、 不特定多数の誰か>自分の図式は覆らないわけですから、 その虚無感は極めて順当だと言えます。 ここで、「いやいや、がんばるのは素晴らしいよ。きみのそれは怠けるための方便に過ぎないよ。さぼるな!」というようなことを思う人がいるかもしれないので、断っておきますが、 それは、はっきりと自己満足なので、そんなものを押し付けられても困ります。 ここで、自己満足ということばに過剰に反応する人は、まあ幼稚なので無視しますが、 ”自分なりのがんばり”はすべて無駄であるということを自覚すべきだと思います。 どれほどがんばったところで、それはどこまでも自分の問題なのだから、 それを他人に評価してもらいたい、というのは、なんつーか、甘っ垂れています。 端的に言えば我侭なので、ひたすら面倒臭いです。 そういうのは恋人の胸のなかか、ブログでこぼしてください。 「がんばることに意味があるんだよ!」とか、ぜんぜん意味がわかりません。 その”意味”は、そいつにしか認識できない程度の意味しか持たないので、 まったく共感できずに途方に暮れます。 価値観は60億パターン以上あるというのに、 自分がそのど真ん中であると疑わない神経の図々しさが、いっそ羨ましくすらあります。 僕にとって、”がんばった”というのは誇りです。 口に出して主張するのは無粋で、格好悪いと思い込んでいます。 逆に言えば、がんばったのを口に出さない僕って格好良いと思い込んでいる、とも言えます。 自己満足なので、自分だけがわかっていれば良いことなのだと思います。 自分の能力も、感情も、自分しか理解できないのだから、自分で自分を評価して、 自分以外と折り合いを付けるしかありません。 言わば自己管理です。 自分をコントロールできるのは、自分だけですから。 他人も、薬も、余計なものでしかありません。 ーーーという価値観の持ち主である僕としては、 「おれだって/わたしだってがんばっているのに!」というような、口さがのない連中は、 北極の崖に全裸の状態で片手でぶら下がって助けを求められたりしても無視したくなります。 無視するかどうかは、実際にその状況にならなければ解りませんけれど。 誰かのためにがんばるのも、その誰かに喜んで貰いたいからで、 誰かが喜ぶと嬉しい自分のためにがんばっているわけで、 要するに、幸福とは自己実現による自己満足だと言えます。 やりたいことをやるために、 貰いたいものを貰うために、 しあわせになるために、 がんばるのは勝手ですが、本当に身勝手なので、勝手にすると良いと思います。 僕は、僕なりに勝手にしますから。 まあ、でも人類は無駄なことばかり繰り返して、ここまで進化したのですよね。 実感はありませんけど。 娯楽も、まあ、生存条件には直結しないし。 文化と言われるものは、たいてい無駄なものです。 かく言う僕も、常々のように無駄なことばかり考えています。 無駄なことばかりしています。 おそらく何の意味も為さないであろう虚無な日々を送っています。 こうして書くと、なんだか、いまにも絶望して首を吊って頚椎を折って全身を弛緩させた挙句に失禁し、、だらりと舌を垂らしそうな毎日ですが、まだそうなっていません。 人間の意識がそうさせるのか、適宜に現実から逃避することによって、 むしろ現実に直面しています。 無駄なことをするために、無駄なことをする人生。 ここで、主観と客観の話をしましょう。 客観的事実と、主観的真実のあいだには、多少の齟齬が生じることがあります。 誰かにとっては無駄なことでも、 別の誰かにとっては掛け値なしの意味を持ったりします。 意識は、それぞれ独立している。みたいな「。 個人化、とでも言いましょうか。 尺度とか、基準値とか、統計とかは存在しません。基本的に。 なぜなら、本人すら把握していない自意識もあるからです。 そのわりには根源的な欲求とか、本能的な恐怖とか、 まあ、その辺は共通項と言えますが、そのほかは、すべて一方通行です。 解るのは勝手ですが、解り合うのは不可能です。絶対とは言いませんが。 瞬間的に同じような連想をすることはあるかもしれませんし、 脳の研究が進めば、あるいは意識を共有できるかもしれませんし。 まあ、そんなことになっても、僕は絶対に自意識を漏洩したりはしませんけどね。 そんなの街中を全裸で歩き回って互いの性器を性別に関係なく舐め合うようなものです。 プライバシーという尊厳は、自己の存在を保つ上で欠かせない用件です。僕にとってはね。 まあ、携帯電話と脳科学が融合しないことを祈ります。食い合わせが良すぎるので。 まあ、いかなる現象も観測者によって意味を変える、ということです。 ということは、現象自体は特定の意味を持たない、ということにもなります。 まさしく無駄って奴ですね。 それを自覚しながら、 つまり、生きることは無駄であると自覚しながら生きるのは、 なんつーか、死にたくなったときの「いや、死んじゃ駄目だろう」という死に対する抵抗を根こそぎ奪う、 圧倒的な説得力を伴う「なんで?」を生じさせますが、 なぜ生きているのか、と訊かれても、生きているから、と答えるほかになく、 では逆説的に、なぜ死なないのか、と訊かれても、同様に生きているから、と答えるほかにありません。 素直に、生きていたいから、と完全なる自分の意思で答えるには、 僕も、僕以外も優しさが足りないように思うからです。 ここで臓器移植の話や、脳死患者の話や、借金苦を反論材料に選択するような人は、 まさかいないとは思いますが、いたらコントロールします。 仲良くなれそうにありませんし、仲良くなりたくもありません。それを言いたくもありません。 すべてが憂鬱かつ面倒です。 でもまあ、知りたくはあります。 ん? あれ、だから僕は生きているのか? 知りたいから・・・? 適当かつ何気なく文章を暴走させるに任せていたら、 なんか、うっかり自意識がポロリしました。 現実感が多少戻って来たような感覚。 虚構の現実感が増してきたせいで、相対的に、現実に現実感が薄れてきて困ります。 踏みとどまるのも楽じゃないなあ、とか。 でも、なんとなく”知りたい”と”死にたい”って、語感が似ていますね。 不吉な。 不図思ったのですが、 最近のフィクションには、両親の描写があまりないような気がします。 それが意図的な演出によるものなのか、集団的自意識なのかはわかりませんが、 それが現代の”家庭”のリアルなのかもしれないなあ、とか。 親と子は不干渉。 自然な流れでしょうか。 少し前まではテレビ画面の中で、 ”親ってうぜーなー、でも、まあ、ありがたいんだけどさ”、 みたいなやり取りがあったものですが、 最近は、それすら滅多に見掛けません。 核家族化とか、少子化とか色々と関係しているのでしょうけど、 テレビは、せめて古き良き家庭を流せよ。と。 テレビは面白くないので滅多に観ませんが、 ”面白くないから観ない”という僕を除き、世間では生活必需品だと聞きます。 暇だから観る、とか。なんとなく観る、とか。 日常生活に食い込んだメディアなわけでしょう。 相当の影響力があるはずです。 そんな影響力のあるメディアで”子と親の乖離”を放送し続けたりしたら、 緩慢にですけど、本当に”子と親の乖離”が加速してしまうのではないのかなあ、という危惧。 人間は視覚に頼りすぎているので、”眼で見たもの”は、 無意識に認識してしまうので、知らないうちに意識に刷り込まれてしまったりします。 サブリミナル効果というのですが、まあ、長くなるので説明はしませんが。 時代がそうさせているのかもしれませんが、 色んなことが解りやすくなっていっています。 みんな焦っていて、だから簡単なものに需要が集中する、というのは解ります。 どちらかというと、僕も楽になりたいですし。 でも、残念ながら、僕は男で、しかも文系です。 戦う文系というわけですよ。 あんまり合理的なのは、うんざりします。 ”いま”は良いかもしれないけれど、未来は苦悩に満ちているわけで。 どんどん過去のツケが累積しているなあ、と。 割り切れるか、割り切れないか、ではなく、”割り切らない”を選びました。 ずっと前に。 間違えるのがいやなんです。怖いんです。だから、ずっと同じことを考え続けています。 ていうか、ぶっちゃけ、いつまでも昔のことをひきずって、くよくよしています。 そういうのは、社会的規範に照らし合わせれば、矛盾しているのは自覚しています。 いわゆる”大人になりきれない子供”というわけです。 最低です。客観的には。しかし、最高です。主観的には。 たぶん、”答え”はとっくに通り過ぎているのだと思います。 僕が必要以上に怯えているだけで、 世界も、世のなかも、小さくて、ぜんぜん大したことなくて、 その影の大きさと本質を混同しているのだと思います。 開き直って、自由を謳歌しますが、不安は消えず、途方に暮れています。 錯覚にリアリティがありすぎるんですよ。 見えないものが多すぎて不明。 前にも書いたことがありますが、 人間のどこに心があるのか、というのは、 ぶっちゃけ、よくわかっていません。 心とか、感情とか、俗にクオリアというものは、 どうやら脳で認識しているみたいですが、 突き詰めれば、脳だって細胞から出来ているわけで、 細胞だって、元素から出来ています。 元素から人間になるまでの過程の、どこで”心”が成立したのか? 逆に言えば、既に元素の段階で”心”は成立しているのか? そこら辺が、なんか空白っつーか、だからなに?みたいなことになっています。 なので、仮説を立ててみました。 元素とかは、どうでも良いです。無視。つーん。 細胞に、”心”があるとします。 細胞のひとつひとつに心があるとすれば、 ときに矛盾した思いを抱くのも、自分で自分がよくわからないのも当然ですね。 人間の細胞の数は60兆個と言われていますから、 60兆個の自我が常にせめぎあっていると思えば、 むしろ、矛盾しないはずがないようにすら思えます。 だから、矛盾はします。 心が、ひとつじゃないから。 心が、ひとつじゃないなら。 きっと、矛盾をします。 うれしくても、どこか悲しくて。 寂しくても、どこか楽しい。 そう考えると、人間ってフランス映画みたいですね。 フランス映画は嫌いですけれど。 要するに、どんなに辛くても、どんなに苦しくても、 どんなに、どんなに悲しくても、どんなに、どんなに、 どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、 どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、 どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、 どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、 どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、どんなに、やってらんねえ!もう死にてえ!と思っても! それを矛盾させて、歪ませれば、ぜんぜん大したことありません。 すべてに向き合えば、あっという間に殺される。 60兆個の細胞じゃ、足りない。生きていけない。やがて確実に死ななければならない僕。 現実はでかすぎて、死は近すぎて、何もかも諦めて投げ出したくなる。 自我が切なすぎる。目の前で起こることの説得力に抗えない。翻弄される。 夢も見れない。何もない。眼を逸らした先に口を開いて僕を待つ暗闇。自分以外。 理解できない。理解してもらえない。孤独。時間。主観。耐えられない脆さ。 あらゆる要素が奇跡的に絡み合って、うぜえ。気が狂いそうだ。破壊衝動。ぶっ壊したい。ぶっ壊されたい。 でも、矛盾させれば、それは別の概念に取って代わり、早変わり。つまり逃避です。エスケープフロムバッドミー! 逃避は生きるために必要な技術ですから、自然ですね。間違ってなければ正解なのかと言われれば、正解は間違ってないのかと訊き返します。ファック偽善者(自分を含む)。自己満足に付き合わされるのは、もうたくさんだぜ!本当のこと以外は聞きたくねえ!知りたくねえ!したくねえ!考えたくねえ!ちょっと傲慢に生きるという決意。宣誓。になっちゃった。結果的に。そんなつもりじゃなかったけど。まあ良いけど。 たとえば、誰かが流した涙があるとしますよね。 たった一滴でも、1リットルでも良いですけれど、 その涙に別の液体を足せば、それはもう涙じゃありませんよね。 それは”元涙”ですけれど、いまは”名もなき水溶液”です。 あとは名前を付けりゃ良い。 ”優しさ”でも、”幸せ”でも、それが誤魔化しに過ぎなくとも、 とっくに破綻して、取り返しが付かないことになっていても、 なんつーか、関係ない。自由。しんどいけども。しんどさと引き換えの、権利。 第一、人間には三次元しか知覚できないのですから、 その程度の主観では、自分が正しいのか、自分以外が正しいのかなんて、 正確に認識できるはずもありません。 誰かにとっての現実が、誰にとっても現実であるは限りません。 距離があれば伝わらないし、伝わっても、情報には齟齬が生じます。 だとすれば、何もかもが矛盾していてもおかしくありませんね。 正しさを立証できない世界では、涙は意味を持たず、ただ零れるだけ。 誰もが矛盾し、やりきれなさを抱えながら逃避して誤魔化し、 目の前にあるものを受け入れるしかなくてーーー、ひたすら自分に言い訳をしている。 人類皆兄弟って、兄弟で戦争なんかしないし、愛し合ったりもしねえっつーの。とか。 なんか、まとめる気ゼロで適当に書いたら、やたらと弱音が目に付きますね。 追い詰められてるって感じ。 そういえば、窮鼠猫を噛むという古事がありますが、あれはどうかと思います。 猫を噛むなよ、と。可愛いじゃん、と。 でも、もともと猫が鼠を喰おうとしているわけですけれど、それに対しても、 喰うなよ、と。グロいじゃん、と。 とはいえ、僕も牛とか豚とか鶏とか喰べているわけですが、たまに思います。 これって死体じゃん、と。キモいじゃん、と。でも旨いじゃん、と。 本能がなければ、とっくに死んでいたかもしれません。いや、どうだろう。 観測していないから、なんとも言えませんけども。 精神分裂と細胞分裂って、なんとなく似ているし。 悲しくても、それを矛盾させれば、それは”悲しみ”とは別の概念ですから、 自分を慰めるには、まあまあ良いと思います。 もっとも、その思考自体が悲しいことを除けば、ですけれど。 「良いな良いな 否って言いな・・・」とか韻を踏んでいると、 「反抗期の子供みたいね」と笑われた でも 胸を張って 僕は大人だ!なんて 口が裂けても言いたくないし ていうか 言えないし ルールを重んじろ というルールに 唾を吐き掛けて ぶっ飛ばされても 自分を信じろ という鬱陶しさに 忘れてた何かを思い出しても みたいな ん・・・ 「みたいな・・・」から先が思い付かねえ! 見たいな と掛けようかな 見てみたいな 見てないか? 見てみたいか?とか訊いてみたり まあ 良いや 没だ これは なんかもう 陳腐だし ---というメモを、某友人の部屋に置き忘れていたらしいのですが、 それすら忘れて、ほかの詞とか書いたり書かなかったりしていると、 次の日、某友人からメールで、 『大胆な詞だな アリだ。 曲が出来たら また連絡する』 と言われました。 後半は、まったく詞じゃないのだけど、まあ、良いか。べつに。アグレッシブな友人だなあ。 途中まで書き掛けていて、 しかし煮詰まっていた別の詩を丸めてゴミ箱に放り込むも外れたので、 きちんと捨てるために立ち上がると、 貧血で身体全体が左側に、ぐらりと揺れました。真下が見えました。明日は見えませんでした。 僕が揺れると、僕以外も揺れて、ぐらぐら。音と衝撃 振動とウッドアイにキスを。ウッドアイは木目。 視覚に頼っているなあと思うと、不意に、ウイリーしてみたい衝動に駆られ、 気持ち悪く なり まし た ”気持ち悪くなりました”を文章としてでなく、図としてみると、”画としてみると”と書きたかった。 ”下”という漢字に見えるように配置して、視覚遊び。遊ばないとね。 『リリカルな詞を提供してくれ』とか言われてもね。 よく解らないし。”よくわからないし”だとバランスが悪いので漢字に変換。いやだったけどね。 『いつもの感じで良いから』とか言われてもね。 リリカルなつもりはないし。 出来ることと、したいことの葛藤に懊悩する22歳の時代が、いま来ています ちなみに、その前は”勝手気ままな21歳” 年齢の前にサブタイトルを付けるのは、楽しいから やめられないので 困る振り とかしてみたり 来年は ”漆黒の23歳”とかーーー なぜだろう かっこいい と 痛い の ふたつの感覚 が せめぎあう ・・・ |
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プロフィール
HN:
Regnen
年齢:
38
性別:
男性
誕生日:
1986/12/14
職業:
学生
趣味:
古い映画のパンフレット収集
自己紹介:
宮崎在住の22歳。
趣味は曲学阿世。 座右の銘は酔生夢死。 最近、 日記の意義を見失い、迷走中。 眠れない夜に更新。 優しくなりたい。 ドムドムハンバーガーが大好き。
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